2025.3.23

追悼:折元立身 パフォーマンス・アートの巨星墜つ

2月23日にこの世を去ったアーティスト・折元立身。認知症とうつ病を患った母・男代(おだい、1919〜2017)の介護自体をアートに変え、《スモール・ママ+ビッグ・シューズ》や、《パン人間の息子+アルツハイマーの母》などを発表してきた唯一無二の存在を、『生きるアート 折元立身』の著者であるキュレーター・深川雅文が振り返る。

文=深川雅文

折元立身 パン人間の息子+アルツハイマーの母 1996 ©︎ART-MAMA Foundation
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折元のアートの根底を貫いてきたもの

 川崎生まれの現代美術家、折元立身が逝去した。1990年代前半、折元の代名詞となった作品「パン人間」が誕生して世界を闊歩し、作家としての飛躍を見せた。2001年、第49回ヴェネチア・ビエンナーレの企画展「人間の台地」に、ディレクターのハラルド・ゼーマンにより日本人作家として唯一人選ばれて参加。展示したのは、自らが介護者として生活を共にする母を自らの芸術に招き入れた作品「アート・ママ」である。折元の名を一挙に世界に知らしめることになった。21世紀に入っても旺盛な制作活動を続け、パフォーマンスを核にして実験精神溢れる作品を制作し続けた。その作品群は、一見、奇異奇抜で過激さも見せるが、人間への尽きることのない関心と想いが渾然一体となっており、見る人の心に温かな余韻を響かせ続けた。半世紀以上に渡る折元立身のアートの足跡をスケッチし、追悼したい。

 元々、画家を目指していた。七度の東京藝術大学受験の失敗を経て、1969年、新天地を求めて渡米。まずカルフォルニアで学ぶ。折元の絵画は学内で高く評価されたが、それに満足せず、恩師の勧めもあって、1971年、当時、実験的芸術活動の坩堝となっていたニューヨークに移住。そこで出会ったフルクサス・グループの活動、ヨーゼフ・ボイス、ヴォルフ・フォステル、ヴィト・アコンチなど過激なアーティストたちのパフォーマンスを目の当たりにして衝撃を受け、絵筆を捨てた。パフォーマンス・アーティストとしての実験はここから始まる。ニューヨークでは、フルクサスのメンバーでもあったナム・ジュン・パイクとの出会いがあり、彼のアシスタントを務めている。また、フルクサスの中心人物であるジョージ・マチューナスの知己も得て、1974年にはフルクサスのグルーブ展「クロック・ショー」に自身の作品「皿時計」で参加。最初の重要な国際展デビューとなった。

 折元が追求したパフォーマンス・アートの真髄とは何であろうか? 「パン人間」についての自身の次の言葉は示唆的である。

 「私は、顔に数個のパンを付けて、世界中の街に突然出没して、それぞれの国の人々とのコミュニケーションを記録しているパフォーマーです。駅、カフェ、レストラン、ストリート、病院、なるたけ多くの地元の人がいる所のパブリックスペースを絶好の場所として、パン人間パフォーマンスを始める。面白がる人、驚く人、変な物を見る眼でのぞく人、レストランで、ウェイトレスに追い出される時もある。怒鳴られたり、喜ばれたり、色々な異なったリアクションがあるが、色々なコミュニケーションこそ、私のアートなのである。」(*1)

 不可視かつエフェメラルな「コミュニケーション」をいわばアートの素材として扱う。この姿勢が、折元のアートの根底を貫いてきた。その端緒と展開を見ておこう。

*1──深川雅文『生きるアート 折元立身』(美術出版社、2024年、 p.323)

「パン人間」、そして「アート・ママ」へ

 1970年代末、折元は試行錯誤の実験を経て、自身の「コミュニケーション・アート」の原型にたどりつく。作品としてこの名を添えた初めてのイベント「うで輪をつける」が1978年にインドで実施された。様々な名前を刻印した金属のうで輪を持参してインドからタイ、インドネシア、中国などで地元の人々とコミュニケーションを図った。さらに、1980年代半ばには、金属製の耳を引く器具を用いる「耳を引く」が生まれ、インド、インドネシア、そしてオーストラリアなどで行われた。折元は、この作品で、1989年、ニューヨークのクロックタワー・ギャラリーで開催された現代美術のグループ展「あちこち、トラベル  Part2: 悲しいトラベル」に選ばれ、自身のアートの方向性に手応えを感じていた。1990年に生まれる「パン人間」は、こうしたコミュニケーション・アートの追求という流れの中での突然変異であった。それまでは、道具立てとして「うで輪」や「耳を引く器具」を他の人に付けることでコミュニケーションを行なってきたのに対し、道具立てとして、自身の顔につける「パン」が招来されたのである。

折元立身 うで輪をつける(タイ) 1982
©︎ART-MAMA Foundation

 その頃、折元は、パンのみならず、時計や帆船模型やマグロの頭など様々な物を顔に付けることを試みていた。なぜパンが選ばれたのか? 自身のパンへの憧憬、キリスト教文化におけるパンの象徴性、身近で日常的な食べ物であること等々、いくつかの動機が絡み合っての直感的判断だった。こうしてパンを頭部に付けて、公の空間で出会う人々と関わり合う「パン人間」が生まれ、1990年代の前半、アジア、アメリカ、ヨーロッパ各地へパン人間の旅が続けられた。この流れは、1990年代半ばに、母と息子、二人きりの介護生活という環境変化によりドラスティックな展開を生み出す。自由に世界を股にかけて活動することが難しくなった折元は、この状況下でいかにして作品を制作し続けるのか?という切実な問いに直面した。しかし、ある日、生活のなかで母とのコミュニケーションをアートにするというアイデアが降りてくる。傑作「アート・ママ」が誕生し、2017年の母の逝去直前まで、約20年間留まることなく続けられた。21世紀に入ると、「パン人間」と「アート・ママ」に加えて、「おばあさんのランチ」や動物とのコミュニケーションを試みる「アニマル・アート」など新シリーズも生まれ、加えてドローイングやオブジェの制作など多彩な展開を見せた。

2017年、富山県美術館の全面開館記念として「パン人間」のパフォーマンスを行った折元
撮影=編集部

 「アート・ママ」の誕生は折元の作家人生において極めて重要な出来事であった。折元は述懐している。

 「『パン人間』だけをやっているときは模索だった。『アート・ママ』でより自分のオリジナリティが出てきた。…」(*2)

 「アート・ママ」は、2000年初頭、介護問題への社会的関心が高まる中、母との介護生活から作品を生み出す国際的作家として、新聞、雑誌、テレビなどのマスコミにも注目された。NHKは『人間ドキュメント』で折元を取材し「アートで人生に輝きを」というテレビ・ドキュメンタリーを制作し放映した。それを受けて著書『介護もアート 折元立身 パフォーマンス・アート』(KTC中央出版)が出版され、折元の名が広く知られるようになった。ところで、「アート・ママ」の発想には、折元がかねてから抱いていたアートとケアについてのビジョンが伏線としてあった。92年にはすでに横須賀の久里浜病院内で病院にいる人びととのコミュニケーションを行う「パン人間」のパフォーマンスを行っていた。様々な理由で病院や施設で生きている人々に対して、自らのアートで思いやりを持ってコミュニケーションすることはケアになるのではないかという信念は、「アート・ママ」を経由して、介護施設や病院などで行われるプロジェクトへと深化した。

2016年、東京・目黒の青山|目黒でパフォーマンス「化粧して、アート・ママに成る」を行った折元
撮影=編集部

*2──深川雅文『生きるアート 折元立身』(美術出版社、2024年、 p.221)

折元のパフォーマンスに潜むユーモア

 コミュニケーションとは何か? 折元に尋ねたことがある。

 「関わりかな。人間と人間との関わりかな。人間の基本はコミュニケーションだと思う。」(*3)

 折元は、自らが生きている時代の動きについても鋭敏な感性を働かせながら、自身のコミュニケーション・アートに向き合っていた。

 「…AIなどの技術の進歩は、もっともっと人を置き換えていくでしょうが、便利さと引き換えに何か人間にとって大切なものがどんどん欠けていく社会になっていくような気がしています。だけど、人間の本質は変わらず、何か温かいコミュニケーションを求めているのです。僕は、人と人との関わりをアートにしてきました。コミュニケーション・アートです。そのコミニュケーションは、人間的な温かさを持ったものです。」(*4)

 「『パン人間』は、死ぬまでやり続けますよ」としばしば語っていた。最後の「パン人間」は、2024年5月12日に東京都渋谷公園通りギャラリー主催の展覧会「共棲の間合い」の関連イベント「『パン人間』パフォーマンス〆」となった。誕生から30年以上経ち、その間、300回近く実施してきたこの作品を、久々に東京、しかも渋谷のストリートで遂行できたのは折元にとって大きな喜びであったに違いない。10人のパン人間が突然、ストリートに姿を現したとき、日本人を含む様々な国籍の道行く人々が足を止め、好奇の眼差しと驚きでもって彼らを迎え、様々な反応が交錯した。世代を超えて示された熱狂は、この作品が現代においてもその根源的な力を失っていないことを多くの人々に印象づけた。人間の本質に根差した作品ならではの共感力が人々の心を掴み、異次元の空間・時間をしばし現出させた。クライマックスでは、集団での「パン人間」の決まり文句となったあの言葉が、渋谷の雑踏に放たれ、繰り返される。

2024年2月10日に「パン人間」パフォーマンスを行った際の折元立身
撮影=編集部

 「私たちはパン人間であり、人間様ではありません!」(We are Bread-men, not human-beings!)

 もう、折元の声でこの言葉が聞けない現実を想うと、大きな喪失感が迫ってくる。

 折元のパフォーマンスに直に触れたことのある人は、その立ち上がり時の息を呑むようなシリアスさと緊張感を記憶しているだろう。それと共に、張りつめた時間と空間の隙間から、時折、何か温かいものが浮かび上がるのを感じただろう。その温かさは、折元のパフォーマンスの隠れた次元に潜む独特のユーモアを介して滲み出してくる。ユーモアは、折元作品の絶妙なスパイスだった。

 「人に会うのも好きだしユーモアも好きですが、同時に、人生が悲劇的なものだという事実から目を逸らすこともできないのです。私が頭の上にパンをつけた姿を見ると、電車の中でも街頭でも笑いが起こります。ユーモアが鑑賞者と私の間に絆を発生させるのです。それと同時にパンという強烈なシンボルが恐怖と危惧を誘発します。パンが意味するのは人生です。今日でも貧しい国々では何百万人もの人々が餓死しています。人生をジョークとして扱うべきではありませんが、人生という悲劇を耐えられるものにしてくれるのはユーモアなのです!」(*5)

 アーティストとして、けして一所にとどまることなく、新作を生むことに心血を注ぎ続けた折元立身。あの世に旅立つ直前までその姿勢は変わらなかった。私には、そのまま突然に飛び去ったように感じられる。天国でも一心に制作に勤しんでいる折元の姿が自ずと目に浮かぶ。

 不世出のアーティスト、折元立身の冥福を祈る。

*3──深川雅文『生きるアート 折元立身』(美術出版社、2024年、 p.365)
*4──同上、p.370
*5──『装苑』(第56巻11月号、文化出版局、2001年、p.128)