半生をかけて未来に伝える描くこと、生きること。黒田征太郎インタビュー
1939年に大阪に生まれ、長友啓典と設立したデザイン事務所K2で多くのポスターや広告を制作し、壁画制作やライブペインティングなどへと活動の領域を広げていった黒田征太郎。80歳を超えたいまもなお、描くことを軸に旺盛な活動を続けている。黒田の半生を振り返るとともに、描き続けたからこそ見えてきたものとは何かを聞いた。
──先日、心斎橋パルコでは、かつてご自身が制作したポスターのプリントの上に、新たにライブペイントをするパフォーマンスをやられていて、80歳を超えたいまもその描くことへの情熱を伺うことができました。長いキャリアを振り返ったとき、黒田さんが絵を描くということを意識するようになったのはいつごろからなのでしょうか?
僕は父が早くに亡くなったので、13歳くらいから働いていました。家族を食わせなきゃいけなかったんです。16歳で家を出て、軍用艦に乗って兵員輸送の仕事に就いていましたが、そのころは絵に興味はなくて、むしろ嫌いでしたね。
滅多に行きませんでしたが、学校が教えるもので、好きなものは何もなかったわけです。一度、絵の授業で光の反射が紫色に見えたことがありました。なので紫色で塗ったら、お前はおかしいと言われてしまった。それで、おかしいのなら止めようと思ってしまったんです。
ところが、教育の外側で学びがありました。手塚治虫の『新宝島』です。いまでも憶えていますけど、1ページ目の波止場に向けて疾走している車のタイヤが楕円で描かれ、背景の電柱も弓なりになっていたんです。それを見て、僕にも車のタイヤが楕円に見えることがあるから、絵はこれでいいんだと思ったことがありました。そういった絵に関する認識がずれていることもあって、嫌いだったんだと思います。
結局、本格的に絵に取り組むようになるのは、故・長友啓典と1969年にデザイン事務所K2を立ち上げた後になりますね。長友との関係は、仲がよいという言葉では言い尽くせません。彼がいなかったら、いまの自分が生きているということが考えられないほどです。そして、あいつにとっての僕もそうだったと思います。共犯関係ですね。
長友と出会わなければ、僕は絵のようなものを描くという行為を続けていなかったと思います。長友は僕の絵をすごい褒めてくれたんです。僕は「ほんまかいな」と思いながら、56年間彼とつきあってきましたから、彼のことを信じているわけです。僕の描く「絵のようなもの」を、心からおもしろいと思ってくれていたんでしょうね。
──K2の手がけたポスターは1973年に東京アートディレクターズクラブ賞を受賞、74年にはワルシャワポスタービエンナーレ銅賞と、70年代から80年代にかけて時代を代表するようなデザイン事務所となります。黒田さんと長友さんは、それぞれのお仕事をどのように分担されていたのでしょうか?
絵を描くのが僕の担当で、それを切ったり貼ったりしてレイアウトするのが長友の担当でした。僕は長友の絵がいいなと思っていたので、「描きなよ」といつも言っていたんですけど結局彼は描きませんでしたね。
それがよかったのか悪かったのかわかりませんが、ふたりで組んで仕事をすることで、世間は認めてくれたような気がしました。イラストレーターとかデザイナーとか呼ばれるようになり、テレビに出て、挙句の果てに電車のなかでサインを求められたりして。人気者だったんですね、どうやら。ふたりとも稼いだ金はあぶく銭だから身につかない方がいいだろうと、使ってしまいました、だから両者、家を建てたことは一度もありません。それはよかったと思っています。
──お手元に用意されているこの大量の手紙は、長友さんに関連するものなのでしょうか?
長友は趣味が多い男だったので、グルメ、ゴルフ、ファッション、美容、時計とかにも興味を持っていました。それ自体はよいことだと思うのですが、率直に言って彼のものをつくることへの情熱が、次第に減っていった気がしていました。人の生き方はそれぞれですし、長友を批判する気はまったくないんですけど、正直なところ「もうちょっと俺と遊んでよ」という気持ちがあったんです。僕は52歳でニューヨークに移住したのですが、延々とそこから手紙を送り続けたんです。返事はありませんでしたが、それでも良かったんです。僕は長友のことが好きですから、こうしてラブレターを送り続けた。
つまり、僕は恵まれているんですよね、人に。そういうふうに受け取ってしまう性格なんです。器量が大きいわけではないけど。
いまも、建築家の安藤忠雄や弟の黒田泰蔵には定期的に手紙を描いていますし、美術家の大竹伸朗やその娘とも文通しています。文通することで、僕も楽になっている。なんだか答えがでてきましたね、楽になりたいから描いているのかもしれない。比較的早くそこにたどり着けたのは、運がいいのかな。
──描くテーマも、次第に自身の描きたいものに近づいていったのでしょうか?
僕はK2で仕事をしながらも、「自分が何者なのかを知りたい」という、厄介なテーマに近づいていきました。それは、野坂昭如と中上健次という、ふたりの物書きと出会って、自身のルーツを考えたことも大きかった。また、そのころ朝鮮民画にも強く惹かれるようになり、僕にもそういう大陸の血が入っているんじゃないかとも考え始めていたんです。
結局、自分探しが趣味みたいになっちゃったんですね。結果的に、一番最初にショックを受けたアメリカの文化、つまり進駐軍とかジープとかエンパイア・ステートビルとか、そういったものを生み出したアメリカに行ってみたいと思い立ち、ニューヨークに移住したんです。ニューヨークには18年間行っていて、そこで僕はもっと自分を知るために描きたいという気持ちが強くなっていきましたね。
最初は、僕の絵がニューヨークでどう思ってもらえるのか、それだけを考えていた。結構大きなアトリエを借りて、キャンバスも20枚くらい買って気合いを入れていたんです。でも当時、ニューヨークから日本を見てみたら、戦争の記憶を消してもいいんじゃないかということに、すごい抵抗を感じるようになりました。
そんなとき、野坂さんの「戦争童話集」が『婦人公論』に連載されていて、ちょっとずつ読んでみたら、戦争に弱いものが巻き込まれていくことを描いていたんです。それに感動してしまった。僕もできることをしたいと考えるようになったんです。
まずは、「戦争童話集」を絵本にしたいと思って絵を描いた。そのうちに、さらに動かしてアニメーションにしたいと思い、アニメ化を実現しました。04年にはトランペッターの近藤等則や写真家の荒木惟経、安藤忠雄とともに「PIKADONプロジェクト」を始めています。芸術を通じて、核兵器のない世界を目指す。2発も原子爆弾を落とされた日本は、メッセージを発することができるんです。即興で絵と音楽を描き、世界中で訴えている。これは今後も続けていきます。
──黒田さんが手がけた有名なプロジェクトとして、1987年から88年にかけて、東京の渋谷PARCOで実施した「黒田征太郎 成人式を迎えた人へのメッセージ~1,000枚ポスター手描きプロジェクト~」が挙げられます。数時間かけて1000枚のポスターを描き、その中から選んだポスター約100枚を渋谷PARCOの外壁に貼りつけ、上からライブペイントするというプロジェクトです。あのプロジェクトはどのようにして始まったのでしょう?
僕自身は描くのがとにかく好きなので、仲のよいアートディレクターの井上嗣也と1000枚の絵を描いてみようということになりました。みんな「えーっ」となったんですど、そうなったらおもしろいからやってみる。ポスターをつくるというのは世間を騒がすということだから、それなりのプロジェクトをやってみようと。
僕の周りの馬鹿なやつらも応援しに来てくれた。別に謙虚ぶっているわけではなく、僕は自分ひとりでできたものなんてないと思っています。
もちろん肉体的にはきつくて、1000枚描いた夜に腰を決定的に痛めてしまいました。最後の打ち上げの飲み会が楽しみだったのに「行こうぜ」となったとたんに、立てなくなってしまって。でも描きたいという欲望に従ったから、やっぱりおもしろかったんです。
──絵具やクレパスなど、画材に対する特別な思いはあるのでしょうか?
長友と出会った頃は、長友に紹介される人がみんな難しい話をしていて、絵を描くことについてコンプレックスがありました。初期のころのK2のポスターのほとんどは線を僕が描き、色は長友が決めていたんです。
それでもいいと思っていたんですが、あるとき様々な色の絵具がバラバラと置いてあるのを見て、素直にきれいだなと思いました。論理的な色彩学でもなんでもないけれど、きれいだと思った。同時に、それぞれの絵具が、地下鉄やバスのなかの人々と重なったんです。赤は若い女、茶はおばあちゃん、黄は金持ち、青は凶暴そうな男というように。いろんな人間がいるからドラマになる。色もそうなんじゃないかなと思うようになって。
だから、手にとった色で描いていきます。あんまり考えていません。考えないで直感だから、僕は描くのが早いんです。そうやって、ちょっとずつ僕もコンプレックスが消えていって。昔は絶対に人前で描くなんてできなかったけど、いまは描けます。
──大阪・アメリカ村の象徴とも言える、ビル壁面に描かれた巨大な壁画《PEACE ON EARTH》(1983)もそうですが、黒田さんの作品は鳥のモチーフね。
わかりやすいキャラクターではありますよね。飛べるから、いろんなものを越えていけるでしょ。そういう理由もあってよく描いていますけど、じつはそんなに思い入れはないんです。
モチーフについて聞かれることは多いけど、僕は最初に描いた1枚から、死ぬ間際に描いた1枚まで、すべてがひとつなぎの1枚だと思っています。それぞれの作品について「いいですね」と言われても、「だめだね」と言われても、「そうですか」といった感じです。だから、描くことで思い悩んだり苦しんだりしたことはないです。画商の人にはそこを演出しませんかなんて言われたりしたけれど。ストーリーがないと売れにくいんで(笑)。
──黒田さんは描くベースとして、廃材なども積極的に使っていますが、それも黒田さんならではの独自の視点から生まれた発想なのでしょうか?
趣味に近いことですが、ピカピカのものよりも、ちょっとへこんでいたり、錆びていたりするもののほうが好きで。そのへこみとか傷とかから、自分が得るものがあります。素材をほったらかしにしておいて、何年も経ってから絵具をつけていくことも多い。傷や汚れの上から塗っていきたいという欲望がありますね。
こうしたことは、自分の生まれ育ちに関わっていると思っています。自分の生い立ちを恨んだりはしていませんが、やっぱり僕のなかに消しても消せないものとして残っています。悲しかったり、悔しかったりしたことは完全には消えていないですね。もっと生意気なことを言うと、人という生き物ってみんなそうなんだと思います。みんなおもしろい背景がある。いろんな人がいて。もっと絵と音楽がそれを広めていければいいと思っている。
──描くことを長い時間をかけて積み重ねたからこそ、伝えられるものもあるのではないでしょうか?
こうして色々と喋ってきましたが、絵が描ける、音も出せる、そういったことが当たり前である状態をキープしましょうと伝えたいですね。自由な絵が描けなかったし、音楽も自由じゃなかった時代があった。テレビなんか見ていると、もしかしたら同じような状況がすでに始まっているかもしれない。僕らのような高齢の人間が、どうせ死ぬんだからから後はいいやというのは一番嫌いです。それで、勝手なことをやられたら、子どもたちはたまらないですよね。
僕が大阪のスタジオとして使っているこの「KAKIBA」では、若い人たちと一緒に絵を描くこともあるし、子供たちもたくさん来ます。そこらじゅう、絵だらけです。僕は絵を描くことと出会ったから、人を殺さずに済んでいる。クサいセリフになりますが、僕にとって絵を描くことや音を出すことは、天からの贈り物です。だから、みんな描いたらいいと思っています。