「版画の青春 小野忠重と版画運動」(町田市立国際版画美術館)開幕レポート。小野忠重の活動を通じて版画運動の諸相を探る
小野忠重の旧蔵品を中心とした約300点の作品を通じて、1930〜40年代の版画運動を牽引した「新版画集団」「造型版画協会」の諸相を探る展覧会「版画の青春 小野忠重と版画運動」が町田市立国際版画美術館でスタートした。会期は5月19日まで。
東京都の町田市立国際版画美術館で、「版画の青春 小野忠重と版画運動」がスタートした。会期は5月19日まで。担当学芸員は滝沢恭司(町田市立国際版画美術館学芸員)。
昭和初期にあたる1930年代の東京は関東大震災から復興し、新しい景観と映画やカフェなどの娯楽文化が流行する近代都市へと変貌を遂げていた。そのいっぽうで、経済や文化面などへの国家の統制が強化され、戦時体制へと歩みが進んだ時代でもあったという。そのような時代の最中、小野忠重や武藤六郎ら20代はじめの青年たちが「新版画集団」を結成し、「版画の大衆化」を掲げて版画運動を開始。さらに、「造型版画協会」を結成して版画運動を継続・発展した。
本展では、小野忠重の旧蔵品を中心とした約300点の作品によって、これらのグループによる版画運動の諸相を探るものとなる。また、激動の1930~40年代という時代に版画に熱中した青年たちが、いかにこの時代を超えようとしたか。いわばその「青春期」を振り返る機会となっている。
会場は大きく分けて2部の構成。第1部では、1932年に結成された「新版画集団」の活動を紹介している。小野忠重や藤牧義夫、武藤六郎、柴秀夫、吉田正三らが中心メンバーとなり始まったこの集団の主な活動は、オリジナルの版画を挿入した版画誌の発行と展覧会だ。22名の版画作家らがこの活動に参加し、版画の大衆化や地位向上を目指して大量の作品を発表していった。
当時のプロレタリア運動に共鳴していた小野は、工場や戦争などの時事問題を扱った社会的でメッセージ性の強い作品を発表していった。また、武藤六郎による作品には関東大震災の爪痕が残る東京の風景が描かれており、復興の記録としても読み解くことができるだろう。
その後、新版画集団は解散する36年までに展覧会を6回開催。活動の普及のために発行されていた版画誌には毎月200点ほどの作品を掲載していたが、多忙で展示作品に力を入れることが困難となってきたため、やがて季刊誌へと路線を変更していった。会場にはほかにも、当時展覧会に出展していた40名の作品を作家別に紹介している。出展作家のなかでも、その後長く作家として活動を続けていったのはほんのひと握りであった、と学芸員の滝沢は語る。
新版画集団が解散に至った理由は、団員の「版画の大衆化」に対する考え方の変化だ。それまでは版画誌を発行し、大量の作品を流通させることでそれを目指そうとしていたものの、作品の質の低下が目立ってきてしまった。そこで新版画集団は一度解散、そしてそのメンバーからとくに志高い作家ら、小野忠重、末木(荒井)東留、清水正博、柴秀夫、水船六洲によって、新たに「造型版画協会」が設立されることとなった。第2部では同協会の主に戦前の活動を追うものとなる。
造型版画協会が重視したのは「版画の絵画性の充実」だ。新版画集団での反省を生かし生み出されていく作品の数々からは、版画特有の複数性よりも、絵画的マチエールの試行錯誤や画面の大型化が見受けられる。同協会による展覧会は、1回目は創設メンバーの5名で、2回目以降は公募展として開催されていった。
戦後になると、展覧会の公募を取りやめ、メンバーのみでの発表が主となっていった。なかには畑野織蔵の《ゆめ》《緑の風景》のようなファンタジックな作品も登場し、戦時下にはなかった新しいイメージも見られるようになっていった。
本展では、小野忠重を中心とした「新版画集団」「造型版画協会」を取り上げ、社会情勢を反映しながらも、諸外国との文化的な影響から、版画に多彩な造形表現が生まれていったことにも着目している。なお、隣の展示室では、日本の版画とグラフィックデザイナーに注目した展示も同時開催されているため、グラフィックデザインと版画の違いについても考えを巡らせてみるのも面白いだろう。