• HOME
  • MAGAZINE
  • NEWS
  • REPORT
  • 「ルイーズ・ブルジョワ展」(森美術館)開幕レポート。地獄か…
2024.9.25

「ルイーズ・ブルジョワ展」(森美術館)開幕レポート。地獄から帰還し、魂の再生を語る

森美術館で、日本では27年ぶりとなるルイーズ・ブルジョワの個展「地獄から帰ってきたところ 言っとくけど、素晴らしかったわ」が始まった。約100点の作品を通じ、ブルジョワの創造の源泉とその背景にある人生の物語を追体験できる。

文・撮影=王崇橋(ウェブ版「美術手帖」編集部)

展示風景より、彫刻作品は《蜘蛛》(1997)
前へ
次へ

 日本では27年ぶりとなるルイーズ・ブルジョワの個展「地獄から帰ってきたところ 言っとくけど、素晴らしかったわ」が、森美術館で開幕した。

 本展は、ブルジョワの国内最大規模の個展。昨年11月から今年4月にかけて、シドニーのニュー・サウス・ウェールズ州立美術館で開催されたブルジョワの大規模個展をもとに、ニューヨークのイーストン財団や東京から新たな作品を加えて再構成している。企画は椿玲子(森美術館キュレーター)、矢作学(森美術館アソシエイト・キュレーター)であり、イーストン財団キュレーターのフィリップ・ララット=スミスは本展の企画監修に務めている。

 森美術館館長の片岡真実は、本展の開幕に際して「六本木ヒルズの象徴的な作品となっている大きな蜘蛛の彫刻《ママン》は、多くの方に知られているが、ルイーズ・ブルジョワという作家についてや、彼女のほかの作品については、意外に知られていない」と話した。日本の美術館で開催された最後のブルジョワ展は、1997年に横浜美術館で行われた展覧会であり、「それ以外では日本での大規模な個展は少なく、とくに30歳以下の方々には見る機会がなかったのではないかと思う」(片岡)。

展示風景より、《隠された過去》(2004)

 椿は、「ブルジョワの創作の源は家族や人間関係、そしてそれに伴う感情だと考えられる」とし、これをもとに本展を3章で構成したという。第1章「私を見捨てないで」では母との関係、第2章「地獄から帰ってきたところ」では父との確執、第3章「青空の修復」では家族や親しかった人々との関係の修復や心の解放が主なテーマになっている。

 また、本展の見どころのひとつとして、各章のあいだに設けられた合計2つのコラムが挙げられ、そこではテキストとともに、初期の絵画や彫刻作品、そして1951年に父親が亡くなった後につくられた抽象的な彫刻シリーズが年代順に紹介されている。

コラム1「堕ちた女 初期の絵画と彫刻」の展示風景より
コラム2「無意識の風景 1960年代の彫刻」の展示風景より

 ここで、ブルジョワが1938年にニューヨークに移住し、本格的にアーティストとしての道を歩むまでの人生を紹介しておきたい。ブルジョワは1911年、パリでタペストリーの修復工房と画廊を営む両親のもと、次女として生まれた。子供の頃、第一次世界大戦が勃発し、父親は戦場で重傷を負い、入院生活を送ることになった。ブルジョワは、父の入院先に合わせて各地を転々とする母に連れられ、幼少期に孤独感を抱いた。

 終戦後、父親は家庭教師として雇った女性と不倫関係に陥り、その事実を知っている母親の沈黙は、ブルジョワにとって大きな心理的傷となった。その後、母親がスペイン風邪にかかり、ブルジョワは療養先の南仏でも母の看病を続ける日々を送るようになった。そして、20歳のときに母親を亡くし、当時は自殺を図ったものの、父親に救われた。38年にはアメリカ人美術史家ロバート・ゴールドウォーターと出会ってわずか3週間で結婚し、さらに数週間後にはニューヨークへ移住し、家族から離れて新しい地での生活を始めた。

第1章「私を見捨てないで」の展示風景より、《家出娘》(1938頃)

 第1章「私を見捨てないで」では、ブルジョワが一生を通じて抱えた見捨てられることへの恐怖などを表現した作品が展示。とくに人間関係や感情の起伏など、幼少期に感じた孤独感や家族の複雑な関係から生まれた作品が紹介されている。

 例えば、最初の展示室では、精神の不安定さが身体表現や肉体にどのように現れているかを示した彫刻作品が並んでいる。アソシエイト・キュレーターの矢作は、「ブルジョワは、精神と肉体は切り離されたものではなく密接につながっていると信じていた」と話す。1950年代に入り、彼女は精神分析の治療を受けるようになり、その時期の作品には性器や耳、頭、腕など、身体の断片がモチーフとして多く登場している。

第1章「私を見捨てないで」の展示風景より

 展示室の壁には、ブルジョワが精神分析を受けていた際の夢日記や記録からの言葉をもとに、米国のコンセプチュアル・アーティスト、ジェニー・ホルツァーが制作した映像作品が展示。これを通じ、ブルジョワが感じていた不安や恐怖をより理解することができるだろう。

 次の部屋には、巨大な蜘蛛の彫刻《かまえる蜘蛛》(2003)が出現。ブルジョワにとって、蜘蛛は母性を象徴するモチーフであり、獲物に飛びつく準備をするような姿勢をとる蜘蛛は、子供を守る側面と、危害を加える者に対して攻撃する暴力的な側面という、母性の相反する側面を表現している。

第1章「私を見捨てないで」の展示風景より、手前は《かまえる蜘蛛》(2003)

 続くセクションでは、母親をテーマにした彫刻作品や、母親から授乳を受けている子供が描かれたグアッシュ作品が紹介。また、第1章の最後の展示室では、手をつなぐカップルをテーマにした巨大な彫刻作品が展示されている。上部に飾られている40枚組のドローイング《午前10時にあなたがやってくる》(2007)は、手書きの五線譜にブルジョワ自身と、彼女を30年間支え続けたジェリー・ゴロヴォイの手が描かれており、日常のルーティンによってもたらされる精神的な安らぎが感じられる。

第1章「私を見捨てないで」の展示風景より
第1章「私を見捨てないで」の展示風景より、手前の彫刻は《カップル》(2003)。壁面は《午前10時にあなたがやってくる》(2007)
第1章「私を見捨てないで」の展示風景より、立体作品は《カップル》(2004)

 第2章「地獄から帰ってきたところ」では、父親に対する複雑な感情をテーマに、心の不安定さを表現した作品が展示。最初の展示室の中央にあった大きな構造体は、ルジョワがニューヨークの取り壊し中の建物から持ち込んだ防火扉を再利用した作品《罪人2番》(1998)。作品の中心に置かれた小さな椅子と防火扉に設置された鏡は、子供の罪の意識や罰の恐怖を象徴しており、上部に刺さった矢は、親からの叱責や、他者の目線、逃げ場のなさなどをを象徴している。

第2章「地獄から帰ってきたところ」の展示風景より
《罪人2番》(1998)の内部

 次の部屋では、洞窟状の作品《父の破壊》(1974)が展示。ブルジョワは幼少期に、暴力的で支配的な父親に対して、母や兄弟とともに父親を食卓で解体して食べるという幻想を抱いていた。父親に対する愛憎を解体して消化し、自己を取り戻す意図が込められたという作品だ。

第2章「地獄から帰ってきたところ」の展示風景より、《父の破壊》(1974)

 ガラスケースに入った《カップル》の作品を経て、次の展示室では大型の電線リールのような作品が目を引く。床には女性の下半身のマネキンが置かれており、まるで引き裂かれそうな緊張感が生まれている。《シュレッダー》(1983)というタイトルの本作を通じ、ブルジョワは攻撃的な感情を作品に表現することで、その感情を相対化して家族に向けないようにしていたという。

第2章「地獄から帰ってきたところ」の展示風景より、立体作品は《カップル》《カップル》(いずれも1997)
第2章「地獄から帰ってきたところ」の展示風景より、左は《シュレッダー》(1983)

 最後の第3章「青空の修復」では、章タイトルと同名の作品が最初に目に入る。糸で5つの傷口を縫い合わせて修復しようとする作品だ。5という数字は、ブルジョワの作品で繰り返して出現しており、フランスの実家と、ニューヨークで彼女自身が築いた5人家族を反映している。

第3章「青空の修復」の展示風景より、《青空の修復》(1999)

 2000年代後半、ブルジョワは赤いグアッシュの作品を多く手がけた。同章で紹介されている「家族」(2007)や「妊婦」(2009)などのシリーズは、ウェット・オン・ウェットという手法を用いたもの。紙を一度濡らしたうえでグアッシュを塗ることで、同じモチーフを描いても、偶然性が現れる。

展示風景より、「家族」(2007)シリーズ

 最後の蜘蛛の彫刻(1997)は、冒頭部の《かまえる蜘蛛》とは異なる側面を表現している。体の下のケージを包み込んで守るかのような姿勢をとっており、ケージのなかにはブルジョワの両親が経営していた工房から大切に保管されていたタペストリーや、ブルジョワが愛用していたゲランの香水が吊り下げられている。「このケージは一種の立体的な蜘蛛の巣で、彼女にとって大切なものを守るための空間をつくり出している」(矢作)。

展示風景より、彫刻作品は《蜘蛛》(1997)

 第3章の最後に展示されている彫刻《トピアリーⅣ》(1999)は、木のかたちをした右足のない松葉杖を持つ人物像で、その右肩には傷があり、そこから青い実が生まれようとしている。松葉杖のモチーフは第一次世界大戦で手足を失った負傷兵をも連想させるもので、ブルジョワのほかの作品にもたびたび登場する。ブルジョワはその姿と自分自身を重ね合わせており、傷ついても生き抜く強さを表現している。

展示風景より、《トピアリーⅣ》(1999)

 展覧会の最後では、ブルジョワの98年にわたるアーティストとしてのキャリアを、年表や貴重なアーカイヴ資料とともに紹介。テーマごとに展示されている各章の作品と対照的に、ブルジョワの人生やキャリアの流れを把握することができる。

 ルイーズ・ブルジョワの作品は、過去の痛みや苦しみを昇華し、自己の再生を図ろうとする深い精神性に満ちている。その芸術は、たんなる美の追求ではなく、傷ついた魂がいかにして生き続けるかという問いを投げかけている。本展を通じて、ブルジョワが紡ぎ出す独自の世界観と、彼女が人生を通じて向き合ってきたテーマに、鑑賞者もまた新たな視点を持って向き合うことができるだろう。

展示風景より、手前は《ヒステリーのアーチ》(1993)
展示風景より
展示風景より

美術手帖プレミアム会員限定で、本展のチケットプレゼントを実施。詳細はこちらから。