展示方法が提示する音と映像への没入体験。菅俊一評 「AUDIO ARCHITECTURE:音のアーキテクチャ展」
音楽を構造物(アーキテクチャ)ととらえ、コーネリアスによるひとつの楽曲と複数の映像作家らによる「音楽的建築空間」の構築を試みた企画展「AUDIO ARCHITECTURE:音のアーキテクチャ展」が六本木の21_21 DESIGN SIGHTで開かれている。全作品が連動している本展の鑑賞体験を、映像作家、研究者の菅俊一が解読する。
映像を展示するということ
私たちが「動いている」と感じたり「音が鳴っている」と感じるのは、直前まで接していた情報と、いま接している情報が、変化していることを読み取れたからである。もし、変化を感じ取ることができなければ頭の中に動きや音は生まれない。つまり、映像や音をつくるということは、ミクロ・マクロの様々なレベルにおいて変化する情報を設計し、時間をつくり出すということでもある。
時間表現を鑑賞する際、一般的には「上映」「公演」「再生」という、頭から終わりまで流れる一連の時間を、任意のタイミングで開始するというかたちをとることが多い。ある固有の時間の流れとしてつくられた表現を鑑賞するためには、スタートのタイミングというのは非常に重要だからだ。体験デザインの観点からすると、鑑賞者に見はじめるタイミングが委ねられている「展示」という形式と映像や音楽表現の相性は、じつは良くないのではないかと考えている。
正直に告白すると、私自身これまで「展示会場で映像を見る」ということに苦手意識を感じていた。作品は、毎朝開館と同時にループ再生され続けているため、私が作品の前に到達するときにちょうど最初から鑑賞できるなんてことはまず無い。往々にして、途中から見はじめた後に作品の冒頭に戻り、自分が見はじめたところまで到達した段階で「一周したかな」と思い立ち去るといった具合だ。たまにそのまま一度見た後半部分を最後まで見続け、1.5周分くらい鑑賞するということもあるが、時間に余裕があるか、よっぽどのめり込んで見ていた作品があるときくらいだろう。映像作品は時間を核にした表現でありながら、展示という場面においては時間のために鑑賞体験が損なわれてしまうという憂き目に遭うことが多いように思う。
本展は、映像作品を展示するということについての、ひとつの在り方を示したものになっている。会場内はCorneliusによって本展のために作曲された楽曲『AUDIO ARCHITECTURE』が延々とループ再生されており、9組の作家による映像作品や、楽曲制作に用いられたPro Tools画面をはじめとしたすべての映像が、音楽に完全に同期するように再生されている。つまり、本展は全展示作品が完全に同期していることになる。
あわせて、会場全体は暗くすべての壁や什器は黒く塗られており、プロジェクションされた映像以外の光が目に入ることはない。これにより、空間全体がひとつの時間を持った構造物であることが明確に示された結果、鑑賞者は自ずと会場内で流れる時間の中にどう身体を合わせて行動していこうかと振る舞うことになる。このような時間への身体の合わせ方と、後述する本展特有の映像の展示方法が組み合わさることによって、新しい没入体験がつくられている。
展示作品はいずれも、映像自体が何かひとつのストーリーをたどるような内容にはなっておらず、各作家がそれぞれが得意としている技法を用いながら、新しい音の可視化や視覚体験をつくるというアプローチで制作されたものになっている。そのため、頭から終わりまでタイミングをあわせてじっと観るということが重要というつくりになっていない。これも、各作家が、展覧会のコンセプトを十分に理解し、音楽によって時間制御がされた中で空間を映像によって構築するための映像とは何かということを考え、そのうえでどう新しいアプローチをするかという探求によって生まれたものだろう。
そのようにつくられた各作家の映像は、8つの映像が順番に流れていく1つの巨大なスクリーンと、その裏に区切られた8つの個別ブースに各作家の映像がそれぞれループ再生されているという、真逆のアプローチが共存するかたちによって展示されている。まず巨大なスクリーンで視野や身体全体を映像に覆われるという体験をした後に、一つひとつの映像が、どのような技法・考え方・構成でつくられているか、先程体感した視覚効果が何故引き起こされたかについて、わかっていくという構造になっている。
まず強烈に没入する体験をした後、その体験の正体を理解していくという構造は、映像という表現手法の多様性と価値を伝えるために非常に有効だ。あらゆる表現は必ずなんらかの意図に基づいてつくられている。特別そのことについて解説することもなく、展示方法によってその意図について自ずと学んでいくことで、映像文化そのものへの理解さえも促進されるのではないかと考えている。
本展のタイトルには「映像」という文字は含まれていないが、そこには映像がもたらす時間と視覚と空間体験の可能性を提示すべく、並々ならぬ想いと工夫にあふれた試みが盛り込まれているものであった。