平成の家族のかたち。椹木野衣評「しんかぞく」「作家で、母で つくる そだてる 長島有里枝」「長島有里枝展」「ホーム・ランド」「テーリ・テムリッツ『不産主義』」
平成から令和へ。その変化の前後に開催された、画家・和田唯奈がキュレーターを務める「しんかぞく」展、ゲンロン カオス*ラウンジ 新芸術校 第4期の選抜成果展「ホーム・ランド」、写真家・長島有里枝のふたつの展覧会、そして日本在住のマルチメディア・アーティスト、テーム・テムリッツによるパフォーマンス『不産主義』。「家族」をキーワードに、これら5つを椹木野衣が読み解く。
月評第123回 平成の家族たち
新しい元号の世となった。しかし令和元年はつい先日まで平成31年だったのだから、両者のあいだにはなお「溝」がある。この溝をめぐる「連接とすれ違い」について、平成31年という短い時の幅に開かれた展覧会をめぐり書く。
「お絵描きのお家」による絵画展「しんかぞく」(B.Esta337)は、「お絵描きのお家の先生」である和田唯奈がキュレーターとなり、共同アトリエに集まってきた「お絵描きのお家の生徒」たちと、最初は教える、教わるという非対称的な関係から始まり、それが三つの段階(1. 絵が家になる 2. 絵と家族になる 3. 絵で家族になる)を経て、次第にお互いが対称的な関係の「しんかぞく」(新家族)になっていく過程を追ったパフォーマンスであり、展示であり、記録でもある。
思えば平成とは、昭和(ここで詳しく論じる余裕はないが、とりわけ戦中)を通じて形成された日本人の「家族」像が、テクノロジーの進歩やコミュニケーションの激変を通じ、音を立てて崩れていった時代でもある(その「象徴」が後継の問題や婚姻をめぐる不和を抱える皇族であるのは皮肉なことだ)。そうして旧来の家族像が断末魔を迎えたかのような平成の終わりに、平成元年生まれの和田が、平成の世になんらかの生きづらさを抱えてきた生徒たちにとっての絵の教師から、次第に母へと成長(?)することで家族を取り戻すという構図は、まさに平成31年ならではの「ものがたり」と言える。それはそれでかまわない。なぜなら、「しんかぞく」とは血縁ではなくお絵描きでしかつながっておらず、ゆえに構成員はつねに
問われるのは、それでもなおそうした関係をなぜ「家族」と呼ぶのか、にある。言い換えれば、「しんかぞく」は「かぞくでない」ことを絶え間なく確認し続けることでしか「しんかぞく」ではいられない。だが、「しんかぞく」も家族の亜種であるかぎり、「
母であり、同時に作家であることについて自己言及した展示としては、東京のちひろ美術館で開かれた長島有里枝「作家で、母で つくる そだてる」展も注目に値する。長島が展示をそう名付けたのは、場所がちひろ美術館だからだ。ただし「しんかぞく」と違って、展示からは家族の気配がほぼ抜き取られている。だから勘違いしてならないのは、作家で、母であることは、長島とちひろを結ぶ一時の一致点でしかなく、母であることが主題化されているわけではない。言い換えば、家族から母が分離されている。
長島は、ちひろの絵や文章を自己になぞらえながら、そこに作家であり母でもある、その意味でつくる人でもあり育てる人でもある矛盾を抱えた存在である二人について、展示を通じゆっくりと抽出していく。この矛盾が無批判に解決されたものとして従来、「母」は母性を備えた存在としてあった。端的に言えば、それは母が家族の一員でなければならなかったからだ。しかし家族の一員でなくとも当然、母は存在しうる。
だが、だからと言って「つくる」と「そだてる」がうまく合致するわけではない。ゆえに本展は「作家で、母で」と読点で分けられた後に「つくる そだてる」と両者が連接され、「つくる」でも「育てる」のでもなく束ねられるのだろう。それはおそらく、ちひろと長島との、同時に絵と写真との「連接とすれ違い」でもあるはずだ。
このことは、相前後した長島の個展「知らない言葉の花の名前 記憶にない風景 わたしの指には読めない本」(横浜市民ギャラリーあざみ野)でも踏襲されていた。「知らない言葉の花の名前」では、長島が習得していない、つまり
同様に「わたしの指には読めない本」展でも、点字で印刷された本を撮影する長島は、被写体を写すことはできるけれども、その本の意味を汲み取ることができない。しかしいずれの場合でも、ほかの誰かには読めるのだ。両者は同じものと向き合っている。だから接点がないわけではない。しかし共有はされていない。この状態について長島は、視覚に障害がある来場者のために、大学との連携で音声機器を開発し、長島の声を通じてインスタレーションの一部に触れてもらうことで、写真が可触的な存在
家族をめぐる展示、プロジェクトでは「ホーム・ランド」(五反田アトリエ)での青木美紅の展示とテーリ・テムリッツ『不産主義』(神奈川芸術劇場)も挙げておく。前者では、自身が人工授精で生まれたことを知った作家が、母とのあいだで培われてきた(人工培養?)多幸症的な記憶を、幻影や刺繍を通じて密室のなかに再構成し、その内部に鑑賞者を招き入れる。それはどこか幸福すぎることの悪夢に似ている。だが、その人為性が際立つのは、そこに父の痕跡がないからだ。ゆえに青木の展示は結果的に脱家族的なもの、より強く言えば母と娘との関係が逆転(娘が母を生んだ)しうる
『不産主義』では、事態はさらに突き詰められている。テムリッツは現代が抱える民主主義の矛盾は、根本的に人が親になろうとすること、つまり家族を形成する=小さな国家をつくろうとすることにあるとして、同性婚の推進でさえその例外ではないとし、すべての関係の制度主義的な根拠づけに反対する。そして「第一に、子を持つことは非倫理的である。第二に、家族は民主主義を不可能にする」と提起し、性転換をともなわないトランスジェンダリズム=全性愛的クィア主義を実践し、みずからの身体を音響や映像と区別せず舞台上に置く。そこでは問題提起と作品は最初から作家や展示と分離できず、定型と呼べるものがない。エンドレスに続く発表は、議論を活性化するための
(『美術手帖』2019年6月号「REVIEWS」より)