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2015.9.2

色彩と線を振り返る 。
椹木野衣が見た、「熊谷守一美術館30周年展」

豊島区立熊谷守一美術館で、2015年5月15日〜6月28日の初夏、「熊谷守一美術館30周年展」が行われた。その大胆な色彩と線の組み合わせは、野獣派や分割主義を彷彿とさせる。晩年の浮世離れした生活から「画壇の仙人」と呼ばれた熊谷守一。油絵、墨絵、書など合わせて100点以上が集う会場で、美術批評家・椹木野衣が思うこととは?

文=椹木野衣

熊谷守一美術館の3階展示風景 写真提供=熊谷守一美術館
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見境のない世界

 ある人から、昭和天皇が泊まった名高い老舗の旅館には、熊谷守一の絵が掛かっていたと聞いた。なんでも、昭和天皇は守一の絵の熱心なファンだったというのだ。本当にそうだったのか確かめたわけではないが、生物学者でもあった昭和天皇なら、十分にありうる話だ。

にもかかわらず一瞬、この話を意外に思ったのは、守一が、日本の画家にとって最高の栄誉であるはずの文化勲章を辞退したエピソードがあったからだ。ちなみに守一は、その後、勲三等叙勲も辞退している。

 日本において勲章とは、国家(万世一系とされた天皇)との距離を示すことで臣民に序列をつける、戦前の慣習の名残である。守一が勲章を嫌ったのは「これ以上ひとが来てくれては困る」というものだったから、そこに政治的なメッセージが示されているわけではない。たぶん、本当にそうだったのだろう。

 華やかな社交どころか、限りある家の敷地内に引きこもり、足下のアリが6本の足をどうやって運ぶかを日がな観察し、絵に描き留めた守一のことである。のんびりとしているようで、その目は、熾烈とも言ってよい瞬間と日々、直面していたのだろう。人間が真剣にアリの足運びを視力でとらえようとしたら、いくら時間があってもとうてい足りない。

熊谷守一美術館の3階展示風景 写真提供=熊谷守一美術館

 もっとも、もしも昭和天皇が守一の絵のファンであったなら、この2度の叙勲の機会がかなわなかったことは、昭和天皇にとって、ひそやかながら残念なことだったかもしれない。ふつうは逆なのだろうが、守一はふつうではない。

 しかし、それもそのはずだ。なにせ、守一の絵に出てくるモチーフの大半は動植物や虫である。人物もないことはないが、個々の顔が持つ表情はすっかり消され、猫や鳥との境目は文字通りなくなっている。

 けれども、この「見境のない世界」にこそ、国と人の統治者である以前に、顕微鏡でミクロの世界を観察する生物学者であった昭和天皇は引きつけられたのではなかろうか。いや、もしかしたら昭和天皇は、生物学者の眼で、かつての大日本帝国を指揮していたのかもしれない。

 そんな想いにとらわれるくらい、守一の世界では生き物と静物、そして日輪のような自然現象との差が、一枚の絵の中ですっかりと解消されている。

熊谷守一 アゲ羽蝶 1976 板に油彩 24.3×33.4cm

 しかし考えてみればそれも当然だ。絵は絵であって、動物でも静物でもない。その表面に定着された鳥や虫は、絵具の塗りと輪郭線で区切られた物質の定着感に、どこまでも徹されている。一見しては単純なように見えても、それは厳しさの結果であって、作風というようなものでは決してない。

 そしてなにより、その色の美しさ。むろん、絵具は絵具でしかなく、その発色は一枚の活き活きとした若葉の色に遠く及ばない。しかしそのうえで、守一の使う絵具の色は溌剌としていて、人工物の美しさの極限に達している。

 今回の回顧展は、館が開いて30年を寿ぐ企画だという。なかなか一堂には会しない作品群が、お世辞にも広いとは言えない室内に、ぎっしりと集う様は圧巻であった。それが戦後70年の年と重なったのは、いったいなんの符合なのだろう。そういえば、この文章が載るのも、敗戦後70年の「真夏」の号であった。

『美術手帖』2015年9月号「REVIEWS 01」より)