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2023.9.5

「おいしい絵画」に逆らって。清水穣評「サーニャ・カンタロフスキー『After birth』展」

タカ・イシイギャラリーが新スペースを京都にオープン。そこで、モスクワ出身のアーティスト サーニャ・カンタロフスキーによる絵画展「After birth」がこけら落としとして開催された。昨今、現代美術のマーケットにおいてもてはやされる絵画(「おいしい絵画」)からは一線を画すカンタロフスキーの作品について、美術評論家・清水穣がその特徴について論じる。

文=清水穣

「After birth」(タカ・イシイギャラリー京都、2023)の展示風景 Photo by Nobutada Omote Courtesy of Taka Ishii Gallery
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「おいしい絵画」に逆らって 

 タカ・イシイギャラリーが、京都の新町綾小路西入、「杉本家住宅」の近くに新しいスペースをオープンした。以前にも京都駅の近くに小山登美夫ギャラリーと共同でスペースを持っていたことがあり、京都の現代美術界に最先端のアートを届けていたが、時期尚早だったのか5年で(2008〜13年)閉じられた。それから10年、新スペースは発想も新たに、築150年の京町家から過去に加えられた数々の増改築をすべて撤去し、失われた部分を復元し、さらに──「ギャラリー」なので──生活のための造作(「おくどさん」や家具の類)をすべて省いて、骨格だけの初期状態に戻すという引き算のリフォーム(竹内誠一郎建築研究所)によって、つくり上げられた。それは、京都に進出した東京資本の町家レストランやビストロにありがちな「和モダン」の建築とは一線を画している。ことさらに「和」を強調したり活かしたりはせず、たんに昔の日本の都会で暮らすための合理的な空間をむき出しにしたのである(*1)。

 ギャラリーが杮落としを、ほかでもない絵画展にした理由は、もっとも難しい課題の出来によってこの空間の潜在的な可能性を探ろうとしているからだろう。もっとも難しい、なぜなら日本建築は基本的に点と線と可動パネルでできており、その室内空間にはそもそも西洋でいう「壁」がない、言い換えれば、壁/パネル自体が絵(障壁画、襖絵)であるからである(土壁はいわば無地の絵)。また、うなぎの寝床に例えられる京町家は、入り口から奥の蔵まで細長い吹き抜けの通路に貫かれ、その途中に坪庭という外を取り込んだ造りになっているから、じつは「室内」も存在しない。内外の入り交じるその空間に、坪庭へ落ちてくる太陽光が乱反射して、複雑な光の明暗を生む。ホワイトキューブからこれほど遠い空間もないだろう。生まれたての(“after birth”)日本の伝統的空間に、絵画をインストールするという課題に挑戦したのが、サーニャ・カンタロフスキー(1982年モスクワ生まれ、ニューヨーク在住)である。

「After birth」(タカ・イシイギャラリー京都、2023)の展示風景 Photo by Nobutada Omote Courtesy of Taka Ishii Gallery

 ところで、芸術に関する膨大な情報(美術史の知と画像)がネット上に普及し、いま、ここで簡単に手に入る現在、そのアーカイヴの巨大さとアクセスの容易さは、個々の作家に、あえて「新しい」ものを加える必要を感じさせない。「新しさ」とは創造ではなく、選択の問題なのだ、と。だから多くの画家はジョン・ケージ風に言えば「何も描くことがない、だからそのことを描く」。「何も描くことがないこと」を描くには、目下のところ2通りあるようだ。ひとつは絵の主題を選ばない(抽象も描けばヌードも肖像も社会的主題も描く)こと。もうひとつは「何」の項にまさに「絵画」を代入し、作品を自己言及的に閉ざすこと。「What you see is what you see」(フランク・ステラ)というわけで、絵画の内容を、解釈や解読のシステムから逃れさせる常套手段である。システムに回収されない絵画を目指すということは、この手段は「システム」と「その外部」という構図に基づいている。解釈・解読が徒労と化す前者はかつてキッチュと呼ばれ、そこからの自由を目指す後者はアヴァンギャルドと呼ばれたが、その構図自体、「その外部」を統合して機能する社会、すなわち「インテグラルな現実」(ジャン・ボードリヤール)の出現により、とうに過去のものとなった。「キッチュ」も「アヴァンギャルド」も、「システム」も「外部」も、すべてシミュラークルである、と。

 こうしてポストモダン以降の絵画は基本的にシニシズムの徴のもとにある。何をいかに描くべきか? 既存のイメージを既存の技巧の応用で描けばよい、作品はアーカイヴから採られた多様な要素のコラージュとなるほかはないのだ、と。実際、昨今の現代美術、とりわけ絵画は、シニシズムとマーケティングの合体といってよかろう。金回りの良い現在のアートワールドには「売り物」が足りない。オリジナルのないコピー=シミュラークルとは、お笑いの「あるある」ネタのようなものである。「芸大生あるある」、しかし現実にそんな芸大生を名指すことはできない。同様にシミュラークルの絵画とは、「絵画あるある」ということだ。既視感アリアリなのに名指せるオリジナルは存在しないとなれば、わかりやすく売りやすい! こうして美術史と技巧の組み合わせにすぎない「おいしい絵画」を、アートワールドの経済がなんなりと流通させる。

 タカ・イシイギャラリー京都の空間が、町家レストランと一線を画しているように、カンタロフスキーの作品は、近年続々と──旨味調味料レベルからグルメまで──登場している「おいしい絵画」とは一線を画している。

Big Boy 2022 キャンバスに油彩、水彩 190.8×140.2cm Photo by Jeffrey Sturges ©️ Sanya Kantarovsky Courtesy of Taka Ishii Gallery

 その感性を端的に表す挿話として、画家は作品のインストールに際し、備え付けてあったイサム・ノグチの「AKARI」をすべて外してしまった。展示のコンセプトは、町家空間のなかで、個々の作品を、それぞれの繊細な質感や色調にもっともふさわしい明暗バランスの場所にインストールするという、シンプルなものであったろう。ただし明暗は時間とともに変化し、日が陰れば暗い場所もあるので人工光で補わねばならない。そのとき「趣味」の良い光の彫刻「AKARI」は邪魔であった。「一線」のひとつは、おいしさや趣味など「味=テイスト」に対する警戒である。

 また、描かれる主題は、日本の怪談にインスパイアされたものもあれば、犬にスフィンクスにアシカ、恋人たち、ヌード、母親の股を裂いて生まれる赤子など様々で、一定のナラティヴに収斂しないからシニカルに見える。が、それを「おいしく」するには、シグニチャーとなる巧さ──例えばミヒャエル・ボレマンスの古典絵画技法など──が必要であるが、カンタロフスキーにそれはない。つまり画家は、特定の内容──例えば同じ旧共産圏出身のネオ・ラオホが共産主義社会の悪夢を寓意として表現しているごとき──に引き寄せられるのを避けるとともに、主題の無選択性をも避けているのである。「一線」の2つ目は、絵の中身を充填せず、空にもしないこと。

Badgirl 2023 キャンバスに油彩 140.2×100.4cm Photo by Jeffrey Sturges ©️ Sanya Kantarovsky Courtesy of Taka Ishii Gallery

 作品の特徴を挙げてみれば、同じ画面の上でドイツ表現主義やムンクを思わせる具象と、アールデコ風(?)のイラストや記号が区別なく交じり合い、抑えた色調のなかからひっそりと浮かび上がるブルーはルドンのパステル画を連想させる。漠然と20世紀初頭の、すでに抽象を知りつつ具象を手放さなかった絵画──当時はアナクロニズムとされ傍流に終わった絵画──が参照されているようだ。

 かつて筆者は、ジグマー・ポルケの芸術を、絵画を構成する様々な要素や概念(支持体、素材、技法、主題、平面性、図と地、裏と表、レディメイド性、鑑賞者の位置…等々)のすべてが同時に動く多体問題に例えたことがあるが(*2)、カンタロフスキーにも似たところがある。転調を繰り返してオチ(カデンツ)を先延ばしにし続ける音楽のように、特定の主題や技法や形態や色調に落ちそうになると身をかわし、その逸脱の動きの連鎖がいつの間にか「絵画」となっているからだ。それはモダンな真実と純粋性から、そしてシニカルな「真実」と「純粋性」からも、解放された絵画である。

Smoke 2023 キャンバスに油彩 80.3×60cm

*1──とはいえ、襖の取手を省いて1枚の面仕立てにしたり、ガラス戸の錠の位置を下のほうに下げて目立たなくするなど、要所要所にさりげない工夫が施されている。
*2──清水穣「大成若缺(大成はかけたるがごとし)ジグマー・ポルケの絵画」『写真と日々』(現代思潮新社、2006)所収。

『美術手帖』2023年7月号、「REVIEW」より)