人物像からひもとくマティス論。中山公男「アンリ・マチス その生涯」(1960)
雑誌『美術手帖』1960年8月号より、美術評論家である故・中山公男の「アンリ・マチス その生涯」を公開。マティスの人生における様々な局面を追い、制作の根底にあるものをひもといている。
20世紀を代表するフランスの画家、アンリ・マティス(1869~1954)。フォーヴィスム(野獣派)の旗手であり、その大胆なタッチと鮮やかな色彩は後世の美術に大きな影響を与えている。
本記事では『美術手帖』1960年8月号「アンリ・マチス」特集から、美術史家・中山公男(1927~2008)による論考を掲載する。中山によれば、マティスの人生は決してドラマティックなものではなかった。彼の心は野望や激烈さとは無縁であり、だからこそ「〈生〉のすべて」を作品に注ぎ、作品と精神的な営みを一体化させることができたのだという。
本稿は人間関係や経済的状況を含めてマティスの一生を丹念に追いかけることで、ゴッホのような「苦悩する芸術家」とは異なる巨匠の人物像を描き出している。2023年に開催予定の大回顧展を前に、マティスを知り、理解を深めることのできる論考である(なお表記はすべて当時のママとする)。
アンリ・マチス その生涯
芸術家の生涯とか伝記は、彼の芸術的達成のいわば副題でしかない。作品がすべてを確証している。あるいは作品が、彼の生涯であるといってもよいのだ。もちろん、芸術家自身にとっては、逆に作品が人生の傍証でしかない場合もありうるだろう。たとえば、不安とメランコリーに責められたヴァトー、絵をすててオリエントに冒険行をこころみようとしたジェリコー、彼らは、その長くはない生涯の途次、くりかえし、そのことを感じただろう。あるいはアフリカにあったランボーはどうだろうか。
しかし、彼らの生が時間のおびただしい堆積にうずもれはてたのちには、ただ作品のみが発言権をもっている。そしてその作品の栄光のファンファーレとして、私たちは、彼らの人生を受けとるのだ。けれども、ときには、作品よりも伝記が、私たちの興味をそそる場合がある。ベンベヌト・チェルリーニの自叙伝を読むとき、彼が彫刻家であったという事実も、それにともなう評価も、躍動的な生涯の眩惑にうずもれてしまう。また、たとえすぐれた芸術家であっても、作品に直接ふれないで作品への意志を予感するだけで、その生涯に圧倒される場合もすくなくない。 ミケランジェロがそうだし、ゴヤ、ヴァン・ ゴッホ、ゴーガンなど多くの類例をあげることができる。
だが、セザンヌの場合はどうだろう。彼が世紀末の巨大なアウトサイダーであったという評価は、その芸術的達成に対して捧げられうるものだ。その日常的な生活は、むしろ小市民的な心情に近い。パリでたえまなく住居を変え、やがてはエクスにひきこもったという事実は、きわめて退屈な伝記しか生みださない。マチスの場合も同様である。たえまなく旅行し、住居をかえ、そして多くの芸術家とめぐりあい、批評家、画商、讃美者に接触し、また美術館や画廊の壁面で、多くの過去の巨匠たちと邂逅する。だが、そこには、興奮も事件もおこらない。偶然的な事故、ささやかなエピソードも生まれない。日常生活の視野では、マチスは、積極的な意志を欠いたきわめて平凡な一市民であるかのようにみえる。第二次大戦中、彼はニースからニューヨークにいる息子のピエールに手紙を書いた。
“カンヴァスも絵具ももうないのです。素人画家が買い漁ったために、芸術家がそれと気づいたときには、もう手に入らなかったのです。ボナールがやってきて、もしカンヴァスが手に入らなかったら、水彩でもやるつもりだと言っておりました。そこで、私は八方手をつくし、彼も今ではカンヴァスを持っています。”
彼の訴える苦悩とはこうしたものだ。まるでパン屋が小麦粉が手に入らないことを嘆き、洋品屋が布地の不足を気にやむようなものである。しかも、マチスは、ゴッホのように、こうした苦悩を精神的な高み、芸術的次元にまでもちこまない。彼の生涯は、冒険者の生涯とははるかにへだたった平凡なものであり、彼の精神は、どんな種類のドラマとも無縁であるかのようだ。
けれども、まちがえないでほしい。マチスの偉大さは、むしろ、こうした職業的な苦しみやよろこびに終止する態度、徹底的な市民の心にあるのだ。つまり、彼は、〈生〉のすべてを絵にあたえつくしていたのである。彼の精神や感覚のなかの積極的な部分は、すべて作品にむけられ、作品に合一し、そこで完全な自己充足をとげているのだ。典型的なフランス的心情の持ち主、明晰と清澄を愛する心、秩序へのあくことない意志、そして洗練をめざす本質的にアルチザン的な肌合い、これらのすべてにかかわらず、マチスは、きわめて豊饒な生への意志をもちあわせていた。彼はそのほとばしる意志を作品にのみそそぎこんだのだ。彼はけっして無口ではなかったが、その言葉のほとんどすべてが、作品にむけられている。きびしい回顧、激烈な告白、意味ありげな誇張、人をつきさすような訴え、そうしたものは、いささかもみいだせない。彼の生活も心も、作品以外の場所で、つまづき、飛躍し、ふみはずすことをしない。だからここには、どんな種類の神話も伝説も謎もまといつかない。彼は、あまりにも絵かきでありすぎたのだろう。自己や他を韜晦(ルビ:とうかい)するには、あまりに絵かきでありすぎたのだ。けれども、その作品を指さして、これが彼の生涯であったといえるなら、やはりこれは類いまれな栄光のひとつだ。