三宅一生が日本のものづくりで果たしてきたデザインの使命とは。「三宅一生インタビュー 未来への提言」
今年84歳でこの世を去った三宅一生。雑誌『美術手帖』2011年12月号より「三宅一生インタビュー 未来への提言」を特別公開し、被服のデザインを通じて日本のものづくりを支えてきた三宅の思想をひもとく。
三宅一生(1938~2022)は、広島県広島市生まれ。71年に立ち上げたブランド「ISSEY MIYAKE」は東洋・西洋の枠組みを超えた先進的なデザインで世界的な評価を受け、日本発のファッションブランドの先駆として知られる。
本記事では『美術手帖』2011年12月号の「三宅一生」特集より、2022年8月に逝去した三宅の貴重なインタビューを公開する。
全国の工場や産地を渡り歩き、素材や技術にこだわるデザインを続けてきた三宅。東日本大震災の年に収録されたインタビューからは、21世紀のものづくりの課題をいかに解決するかを常に自問してきた三宅の思いを読み取ることができる。
三宅一生インタビュー 未来への提言
1970年代より、革新的な衣服を発表し続けてきた三宅一生は、21世紀を前に未来のものづくりの可能性を問い直し、 2010年より「132 5. ISSEY MIYAKE」という新コンセプトのブランドを立ち上げた。
デザインの未来への道筋の開拓を始めて1年になる、表現の最先端を切り開き続ける三宅に、ものづくりの可能性についてインタビューした。
──再生ポリエステルの素材を用い、手仕事とアルゴリズムの融合という、まさに発明的なデザインとして、ファッション、デザインの世界に衝撃を与えたブランド「132 5. ISSEY MIYAKE(以下、「132 5.」)」の発表から、はや1年がたちますね。
三宅 去年の8月に東京、9月にパリで発表してから、1年余りですね。「132 5.」に関しては、ほかのブランドとは違い、いわゆるファッションショーというものはしたくありませんでした。ファッションとしてではなく、むしろプロダクトやデザイン、 アートや建築に関わっている人たちに見てもらいたかったのです。
そもそも僕は、1999年に「ISSEY MIYAKE」ブランドを滝沢直己にバトンタッチしました。その後、藤原大と「A-POC」を開発するなど、若いスタッフたちと意見交換しながら、僕が教えるというより、みんなと一緒に衣服の新しい可能性を探してかけずりまわるのが楽しくなっていたのです。全国をまわり、新しい技術や手仕事を発見したりするうちに、日本のいろんな産地の方々とますます「一緒に仕事をしたい」という気持ちになっていきました。
そして同じころ、21世紀に入る少し前でしたが、自分自身がこれから起こるだろう時代の大きな変化をしっかり捉えることができるのか、自分に何ができるのかをずっと考えていました。そこで出てきたテーマが「再生・再創造」 です。最終的にはこれを僕たちは「アップサイクリング」と呼んでいます。すべてのものは、石油であれ重油であれ、物質からできているわけですから、それらの限られた資源を再生させて、もう一度使えるようにする。さらにはデザインの力でその先に行かなければいけない、より価値のあるものをつくり出さなくてはと、そう思ったのです。
21世紀のものづくりを考える
──リサイクリングではなく、アップサイクリング、つまりリサイクルのもう一段階上に向かうというスピリットですね。
三宅 そうです。ところが、いざつくろうと思ったときには、日本の工場の閉鎖が始まっていたんです。閉鎖だけでなく、海外移転も進んでいました。機械と同時に、優秀な技術者も海外に出て行ってしまっていることがわかり、これはまずい、急がねば、なんとかしなければと思いましたね。昔は、国内の各地域ごとに、ものづくりのすべてが 完成できるような工場のチームがあったわけですが、いまでは一つの地域に工場がせいぜい一つ残っていればいいほうといった状態です。全国の工場に問い合わせないと、ものづくりが完成できないというような状況がある。これは深刻です。
以前、素材の開発のために、和紙の産地をまわったことがあったのですが、美濃和紙や福井の和紙の産地などは、それぞれの地域に1、2軒しか工房が残っていないのです。跡取りがいない、嫁さんがこないで、本当に未来を見通せない状況です。一方で、地球の人口はいま、70億人に達しました。日本は第二次世界大戦後に7000万人ほどしかいなかったわけですから、人口は2倍近く膨れ上がっている。中国やインドなどでもすごい勢いで増えています。廃棄物をアップサイクリングさせるという考えは、こうした世界の現状のバランスのなかでたどり着いたテーマなのです。
──今後、日本のものづくりはどうなっていくのでしょう?