ゴッホの名作はここにある。国内美術館で見られる代表作をピックアップ
国内の美術館には世界に誇る西洋絵画の巨匠の名作が多く収蔵されている。そんな名作の数々を画家のエピソードとともに紹介。来館の参考にしてもらいたい。今回はポスト印象派を代表する画家のひとり、フィンセント・ファン・ゴッホを追ってみよう。なお、紹介されている作品がつねに見られるわけではないことは留意されたい。
フィンセント・ファン・ゴッホ(1853〜90)は、印象派の巨匠、クロード・モネ(1840〜1926)と並び日本でも人気の画家だ。人気の理由として、数々の挫折を経て、ようやく自身の指標をとらえた矢先に、ピストルによる負傷で志半ばに命を落としたそのドラマティックな生涯や、その死まで彼を献身的に支えた弟テオとの兄弟愛のエピソードへの感傷も大きい。彼の代表的な作品に見られる鮮烈な色彩やうねるような筆致に、その悲劇的な人生を重ねて、激しい感情の、そして生命のほとばしりを読みとれるからなのだろう。
ゴッホが画家として活動した期間は、10年にも満たない。その間に、850点を超える油彩作品を遺した。ドローイングや版画を含めると、その数は2000点にも及ぶ。創作期間を鑑みれば驚異的な数だ。晩年には1日に複数点の油彩画を仕上げたこともあったらしい。
生前に売れたのは1点ともいわれるゴッホの作品は、死後急速に評価が高まる。義妹ヨーの尽力もあり、多くは母国オランダのアムステルダムにあるファン・ゴッホ美術館に寄贈された。同館は、早くからゴッホ作品を高く評価してしていたクレラー=ミュラー夫妻のコレクションを所蔵するクレラー=ミュラー美術館とともに二大ゴッホ・コレクションと呼び慣らわされる。このほか、フランスのオルセー美術館、アメリカのニューヨーク近代美術館(MoMA)、メトロポリタン美術館などに収蔵された代表作がよく知られている。
日本にはそれほど多くのゴッホ作品はないが、それでも彼の各時代の特徴を備えた作品が見られ、その画業を追うことができる。
なかでも世界に誇れる作品が、SOMPO美術館の貌ともなっている《ひまわり》と、彼の最晩年の一作とされる、ひろしま美術館所蔵の《ドービニーの庭》だ。また、ポーラ美術館とアーティゾン美術館にも優品が収蔵されている。加えて、初期の作品は、和泉市久保惣記念美術館や諸橋近代美術館で見られる。ゴッホの生涯とともに、各館所蔵のコレクションを追っていきたい。
1853年、オランダ南部のズンデルトで牧師の家に生まれたフィンセント・ファン・ゴッホ(以下、ゴッホ)は、敬愛する父のもとで敬虔なキリスト教徒として育つ。16歳から画商グーピル商会に勤めるが、上司との関係が悪化し解雇。ハーグ、ロンドン、パリの店舗で働いたこの頃に、多くの作品を通じて美術に興味を持ったようだ。
その後、父のような聖職者になりたいと、牧師の資格を得るべく伝道師としてベルギーの炭鉱地帯ボリナージュで活動を始める。厳しい労働環境にある貧しい人々に接した彼は、その苦しみに自身も身を投じて寄り添おうとするが、あまりにも常軌を逸した言動から村人に厭われて、資格をはく奪されてしまう。
二度の挫折を経た1880年、ブリュッセルに戻ったゴッホは、絵画を通して貧しい人々を救済したい、と画家を目指すことを決意する。この頃から、兄の後を継いでグーピル商会に勤めていた弟テオの経済援助が始まったようだ。以後、テオは時には兄の勝手に憤りながらも、経済面・精神面ともに兄を支え続けた。
ゴッホは筆まめだったらしく、テオをはじめ友人に送った手紙などが多く遺されており、彼の画業を知るうえで貴重な資料となっている。岩波文庫から『ゴッホの手紙』(上下巻、1955)として翻訳が出版されているので参考にされたい。
画家を目指すゴッホは、ほとんど独学で技術を習得していく。敬愛していたジャン=フランソワ・ミレー(1814〜75)の素描や版画などを繰り返し模写し、暗い色調で、貧しくも真摯に働く農民や労働者の姿を描いた。和泉市久保惣記念美術館には、この頃のゴッホの作品が3点収蔵されており、彼の初期の画風とそのまなざしを伝える。
また、吉野石膏コレクション(山形美術館寄託)の1点も、ゴッホが農民画家として活動したニューネン時代を代表する一作だ。横長の画面に夕暮れの雪原で薪を背負って歩く農民の一家が描かれる。一見拙くも感じられる情景だが、凍てつく空気とともにうつむく人々の姿には疲労と静寂が満ちている。遠く沈んでいこうとしている太陽の赤だけが、彼らを慰撫しているようだ。ミレーの影響とともに、横一列に配置された人々の構図はエドゥアール・マネ(1832〜83)など近代の画家を研究したことも感じさせる。
ゴッホは対象物やモデルなしには描くことができなかったようで、初期には農婦(夫)をモデルに多くの肖像画を描いている。その一作が諸橋近代美術館が所蔵する《座る農婦》だ。
正面からこちらを見つめる農婦の姿からは、モデルになっている緊張感が見て取れる。同時に彼女の姿をその生きざまとともにとらえようとする画家の想いが、丁寧な描写から感じられる。このほかウッドワン美術館、アサヒビール大山崎山荘美術館にも農婦の肖像画が収蔵されている。
また、この頃の風景画は東京富士美術館で見られる。ゴッホが画家としての自信をつけたニューネン時代の集大成、《馬鈴薯を食べる人たち》(ファン・ゴッホ美術館蔵)を描いた翌月に制作されたとされる一作。画面いっぱいにどっしりとした重量感で描かれた農家は、そのまま地に根ざして生きる農民の力強さを思わせる。「きれいな荒野の農家」とテオへの手紙に記した作品のうちのひとつで、同時期に似た作品が複数描かれていることから、ゴッホにとって大事なモチーフだったことがわかる。
しかし、このひたむきさからモデルとのスキャンダルを疑われ、ゴッホはここでも制作できなくなり、1886年、予告なくパリにいたテオのもとに転がり込む。
パリではその頃、ジョルジュ・スーラ(1859〜1891)が印象派から色彩分割理論を深化させた点描主義が台頭し、同時に浮世絵をはじめとするジャポニスム・ブームが興っていた。ゴッホも印象派や新印象主義を積極的に採り入れ、それまでの暗い画面に代えて明るい色彩でパリの街や静物を描き出していく。浮世絵も熱心に収集し、安藤広重の作品を油彩で模写したり、自身の作品の背景に描き込んだりしている。また、長続きはしなかったが、美術学校でデッサンも学び直し、石膏の油彩作品も遺している。
トゥールーズ・ロートレック(1864〜1901)、エミール・ベルナール(1868〜1941)ら若い画家たち、マルティニックから帰国していたポール・ゴーギャン(1848〜1903)とも交流を持ち、画家としての自覚を強まった時期となる。
アーティゾン美術館が所蔵する《モンマルトルの風車》は、その過渡期を示す。いまだ褐色が残りながらも大きく空を取り、画面が明るくなってきているのを感じられるだろう。静物画にも注目しておきたい。ゴッホはその初期から静物画をよく描いているが、いずれの時代のものも秀作が多い。代表作《ひまわり》の連作に通ずるのはもちろん、その晩年まで、彼は風景とともにすばらしい静物画を遺している。