櫛野展正連載27:アウトサイドの隣人たち(番外編) アール・ブリュットという「誤認」
ヤンキー文化や死刑囚による絵画など、美術の「正史」から外れた表現活動を取り上げる展覧会を扱ってきたアウトサイダー・キュレーター、櫛野展正。2016年4月にギャラリー兼イベントスペース「クシノテラス」を立ち上げ、「表現の根源に迫る」人間たちを紹介する活動を続けている。彼がアウトサイドな表現者たちに取材し、その内面に迫る連載。第27回は番外編として、櫛野がスイスとフランスで見た2つの展覧会レポートをお届けする。
スイスのローザンヌ市には、アール・ブリュットの概念を提唱した芸術家ジャン・デュビュッフェ(1901–1985)が自ら蒐集した作品をもとに誕生した美術館、アール・ブリュット・コレクション(Collection de l’Art Brut)がある。アール・ブリュットの「聖地」とも言えるこの場所を、僕が初めて訪問したのは、いまから10年前のことだ。
2008年、この美術館で日本人作家12名の作品を紹介する「JAPON」展が開催された。開催の経緯は、滋賀県にある「ボーダレス・アート・ミュージアムNO-MA」の運営母体である社会福祉法人グローの北岡賢剛が2006年より複数回にわたって、折衝を重ねたこと。この展覧会の成功がきっかけとなり、2010年からはフランスのパリ市立アル・サン・ピエール美術館で、日本人作家63人を紹介する展覧会「アール・ブリュット ジャポネ」が開催され好評を博した。この歴史的な2つの展覧会によって日本のアール・ブリュットは世界に広く知られるようになったのだ。
そして現在、フランスとスイスのそれぞれの美術館で、続編となる展覧会が開催されている。どちらも「アール・ブリュット」という言葉を冠し日本人作家を紹介した展覧会だが、パリ市立アル・サン・ピエール美術館での展覧会が「アール・ブリュット ジャポネ II」という展覧会名であるのに対して、アール・ブリュット・コレクションの展覧会には「日本のアール・ブリュット もうひとつの眼差し」というタイトルが付けられている。果たして「もうひとつの眼差し」とはいったいなんだろうか。アール・ブリュット・コレクションのサラ・ロンバルディ館長にお話をうかがった。
「10年前の『JAPON』展では、12名の作家の作品を展示しました。当時、展覧会をつくるにあたって、ひとつの日本の社会福祉法人だけと協働していたため、ほかの日本の作家を独自に調査したり作家と直接的な関係を結んだりすることができませんでした。そこで本展では、キュレーターとして美術史家で美術批評家のエドワード・M・ゴメズに参与してもらいました。彼は、独自のネットワークで日本各地を調査し、新たな作家や画廊、研究者などとネットワークを構築することができました。ヨーロッパでは様々なアール・ブリュットの展覧会が開催されていますが、こうした独自の関係性を持つことができたのはこの展覧会が初めてのことです」。
たしかに「日本のアール・ブリュット もうひとつの眼差し」展における24名の出展作家の内訳を見てみると、戸次公明、井村ももか、鎌江一美、岡元俊雄、杉浦篤、植野康幸など障害者福祉施設からの出展者が大半を占めるいっぽうで、ニューヨークやパリのアウトサイダー・アートフェアにおいて既に高値で取引をされているモンマや土井宏之など、これまで日本の展覧会ではあまり紹介されることのなかった、障害のない作家も名を連ねているのが大きな特徴だ。
もちろん10年前の「JAPON」展でも「横浜の帽子おじさん」こと宮間英次郎が紹介されているものの、「日本においてアール・ブリュットという言葉は知られるようになりましたが、いつも障害者と関係づけられています」とゴメズが述べるように、「障害者による文化芸術活動の推進に関する法律」が公布・施行された現在、ますます障害のある人たちの芸術表現がアール・ブリュットと誤認し紹介される動きは、日本国内で広がりを見せている。そこで、「別の視点」として障害のない作家も含めて紹介し、新たなネットワークを構築することが本展の狙いのようだ。他のヨーロッパの展示会場と違って、作品を調査しそのコレクションを拡充し続けているアール・ブリュット・コレクションにとって、こうしたネットワークは将来的にも貴重な財産となるのだろう。
サラ・ロンバルディ館長によると、「アール・ブリュット・コレクションの使命とは、デュビュッフェが提唱したアール・ブリュットの定義を正確に伝えていくこと」だという。アール・ブリュットにおいて重視されているのは、我流であることだが、たとえば障害のある作家などは材料の準備から作品完成まで、ひとりで遂行することは難しく、周囲のスタッフや家族などがサポートしている現状がある。
これについて、ゴメズは「施設のアトリエに参加している作家はスタッフや家族から材料を受け取っています。しかし、このことはメンバーの創作には直接影響していません。『指導をしない』という方針は、オークランド市ダウンタウンにあるクリエーティブ・グロース・アートセンターのように世界共通のルールなのです。例えば、精神病院に入院しながら制作を続けたアロイーズ・コルバスのように、周囲の人間から画材の援助を受けることはあっても、テーマやテクニックを発見したのは彼女自身なのです」と語る。
かつて、アール・ブリュット・コレクションのリュシエンヌ・ペリー前館長は「孤独」「沈黙」「秘密」という 3 つのキーワードを挙げ、それらがアール・ブリュットにおける本質的な要素を示すものであると説明した。もしデビュッフェが生きていたなら、「障害者のアート」と「アール・ブリュット」が誤認されている我が国の状況を憂うかも知れない。もしデュビュッフェが、日本の福祉施設を訪問したならば、福祉施設のアトリエにおいて障害のある人たちが集団で創作している姿にどう評価を下すだろうか。
ゴメズは、アール・ブリュットの定義について以下のように教えてくれた。
「アール・ブリュットの作者は、通常は社会や文化のメインストリームのなかにはいません。しかし、誰もがテレビやインターネットなどのメディアに触れることができるようになった現在では、メインストリームと距離を保つことは困難です。『アウトサイド』という概念はつねに変化しています。そのため、現代のアール・ブリュットの作家たちもそうした社会や文化に関わりながら生活し、そこから創作のインスピレーションを得ることもあるでしょう。デュビュッフェによると、真のアール・ブリュットのアーティストは常に強いヴィジョンを持っています。このヴィジョンはとても独創的で我流であることが重要です。アール・ブリュット・コレクションは、つねにこのデュビュッフェの信念に基づいてアーティストを選定しているのです」。
時代の変化とともに、アール・ブリュットの作者を取り巻く環境も変化している。1967年、アール・ブリュットのコレクションが5000点を超えたことを機に、デュビュッフェはアール・ブリュットの定義を精錬するために「芸術の教養がある人の作品」も収集し始めたという事実がある。2013年の第55回ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展では、これまでアール・ブリュットの文脈で紹介されることの多かった作家の作品が多く展示された。今後、アール・ブリュットは現代美術という「中心」を補完する装置として利用されていくのだろうか。そして日本国内では、東京オリンピック・パラリンピックを間近に控え、アール・ブリュットをめぐる国内外の動向は2020年前後でどう動いていくのか、今後も目が離せない。