「足場の悪さ」に挑む2人の画家
梅津庸一と佐藤克久
自らの足場となっている美術の歴史とどう向き合い、自分自身の創作活動を行っていくのか。多くのつくり手が直面してきたこの問題にそれぞれの方法で対峙する2人の画家、梅津庸一と佐藤克久の活動について、愛知県美術館学芸員の中村史子が分析する。
足場の悪さと画家たち 梅津庸一の生きなおしと佐藤克久の持久戦
はじめに
既存の美術制度や言説、環境に対し、後に続く者はそれらとどう折り合いをつけて自分の表現活動を行いうるのか。多くのつくり手が一度は直面する問題である。
2017年の1月から3月にかけて、愛知県内では梅津庸一と佐藤克久が存在感を示した。彼らはそれぞれ異なる地点に立ちながらもともに表現者として上記の問題意識を持ち、過去の美術表現の蓄積と対峙している。彼らの活動を紹介し、先行する美術の歴史と個々の作家との向き合い方について述べたい。
梅津庸一 最初から生きなおすこと
2017年1月から約2ヶ月半、愛知県美術館では梅津庸一の個展「未遂の花粉」を開催する運びとなった。この個展では彼の絵画作品を主に展示することが早い段階で決まり、結果的に彼が主宰する美術運動コミュニティ、パープルームの活動は会場内ではほぼ紹介されないことになった。すると梅津はまったく独自に名古屋市内に展覧会場を見つけ出し、交渉の末、3会場(波止場、gallery N、YEBISU ART LABO)で展覧会を同時開催するに至る。
その3つを会期順に紹介すれば、佐藤克久と行った2人展「ネオ受験絵画とフラジャイルモダンペインティングにみる日本の現代美術家の苦悩」(波止場)、自作と若手作家の作品によって構成された「パープルームのオプティカル・ファサード」(gallery N)、そしてパープルームに所属する作家たち(彼らは「予備校生」と呼ばれている)によるグループ展「パープルーム予備校生のゲル」(YEBISU ART LABO)となる。
これらすべて梅津の企画によるものだが、展示内容はまったく別物だ。佐藤との2人展は双方がお互いの出方を探りつつ空間を構成しており、梅津が床に置いたマネキンの手と「美大の助手みたいな作家が描く幾何学について」という壁のテキストが鑑賞者の目を引く。考える頭を持たない空洞のマネキンこそ「苦悩する現代美術家」なのだろうか。佐藤が壁に飾ったカタログや印刷物(ジュリアン・オピーといった海外作家のカタログから、「ひそやかなラディカリズム」等の日本の展覧会カタログ、そして東海地域で開かれた企画展のDM等)が2000年代以降の美術の一つの傾向を浮かび上がらせる一方で、床面に梅津が並べた、後期印象派に傾倒した頃の岸田劉生の絵画や美術予備校生の近代洋画然とした絵画は、現代にいたる近代美術の影響を仄めかしている。この美術家は前者こそを「コンテンポラリー・アート」だと認識しそこを志向しながらも、後者に腰まで浸かっているかのようだ。まさに立ち往生状態であるが、それでも絵画を手放そうとはしていない。梅津が本展示を通じて軽やかな抽象絵画(*1)の近年の興隆とその背景を皮肉交じりに批評しているのは明らかである。
一方、gallery Nでは梅津はより教父的振る舞いを見せる。ガラス壁面に対し、黒田清輝の《智・感・情》(1897)のポーズを模した映像作品《メトロノーム》を中央に掲げ、周囲に宮下大輔、小林椋、花木彰太などの若手作家を配置している。そのため、展示の全景がラファエロの壁画《アテナイの学堂》(1509-10)よろしく作家の一群をおさめた一つのショーケースのようである。作品を形づくる細部のキッチュさにもかかわらず、展覧会全体は調和のとれたエレガントな印象すら見る者にもたらす。
さらに、3番目に開かれたYEBISU ART LABOでは、パープルーム予備校生たちの作品が展示されるのみならず、会場に彼らが日々寝泊まりし、開廊中もドローイングを描くなどして留まり続けた。彼らの生々しい生活の手触りが生活と制作、展示の境目をなくし、その結果、会場には、日常生活と地続きの親密さとそこに他人が侵入する緊張感が充溢していた。
さて、それにしても何故、梅津は自作の展示に飽き足らず、これほど第三者との展示を求めるのか。この全方位的な彼の活動傾向を理解するには、まず、彼が日本の近代美術の出自に非常に自覚的である点を述べないといけないだろう。梅津曰く、日本の美術制度および美術教育は体制側の都合によって様々な歪みを内包しつつつくりあげられたものだ。その歪んだ土台に拠って立つ以上、日本で美術家として活動していても、いずれ破綻や限界がくるのは確かだ。しかし、そうであるにもかかわらず、多くの表現者はこの美術の起源を忘れたかのように、もしくは見ないように振る舞っている。梅津はそこに大いなる欺瞞を覚える。波止場での展示はその苛立ちの現れだろう。
そして、この問題意識から、梅津は近代美術黎明期の絵画の中へと自らを投じ、奇妙な近代日本美術の始まりを何度でも再演する。さらに、近代美術史をただ客観的に考察するのではなく最初から「生きなおす」べく、美術教育黎明期の画塾を模した美術運動体、パープルームを打ち立て実働させている。その実践によって、硬直化した教育制度や権威的な団体へと変わってしまった過去の画塾を反省的に振り返り、彼らが歩んだルートとは別の美術教育システム、美術コミュニティを一からつくり直そうと試みているのだ。
日本の近代美術をその起源から批判的に問い直し、実生活を賭けてその是正に励む梅津の活動は、いささか誇大妄想的である。けれども、ドン・キホーテのように果敢に様々な表現者と関わり、意図的にバグやエラーを生じさせながら自らの表現領域を拡張していく様は、私たちを囲い込む「日本近代美術」という枠組を内側から照らし出し、それを突破しうるのではないか、という期待をどこかに感じさせるものである。
佐藤克久 危機感と閉塞感
続いて2人展「ネオ受験絵画とフラジャイルモダンペインティングにみる日本の現代美術家の苦悩」を梅津と実施した佐藤について述べたい。愛知県在住の佐藤は、形態と線、面、色彩と塗り方の組み合わせについて探求しており、彼の絵画作品にはそれら絵画の構成要素を関数的に変化させて視覚的効果を探る知的な態度と、どこかとぼけたユーモアが共存している。そのような佐藤が、いったいどうして自らの表現やその基盤をあえて批判に晒そうとしたのか。その理由を理解するために、佐藤が書いた次のテキストをここで挙げよう。
私が課題にしている危機感(閉塞感)を掘り下げてみると、完全な自律性と普遍性を持ち得ないはずの個人が、作品では自律性と普遍性を確立しなければならない、という矛盾と限界に気が付きます。また、制作者が意識的/無意識的に受ける情報が均一化していることにより、交換可能な内容や技術による作品の平均化が起きていると思うのです。(*2)
この地域には美大が3つもあり、多くの画家を輩出してきました。現在も絵画をベースにして活動している学生、作家の密度は非常に高いと言えます。この地域の美術がもつかつての成功例という幻想が薄まり、機会と評価が回ってくるため成立しているように見え、冷静に見返す余裕も無くなってしまっているのではないのかと思うのです。(*3)
すなわち、佐藤は自身の制作にも周囲の環境にも危機感を抱いている。たしかに東海地域の絵画には絵画形式を先鋭的に問い直し解体・拡張するより、生成されるイメージの豊かさを肯定的に受け止め言祝ぐ傾向が強い。そこから多くの優れた作品が生み出されてきたが、無自覚に絵画制作を選択しこの潮流に追従する者も少なくはないだろう。また、この風土が絵画というジャンルの外側に対する無関心を助長し、過去の表現の背景や理論を十分に咀嚼することなく、その表層だけを意匠として取り込むことを黙認している面も否めない。佐藤はこの自閉した現状を批判的に描写し多くの人と共有する必要を覚え、日本の美術制度の出自に非常に意識的な梅津をトリックスターとして招き入れたのであろう。そして、自分自身を空洞のマネキンになぞらえさせたわけである。
問題系の転送
さて、佐藤は自らを拘束する危機的環境について梅津を通じて顕在化せしめたわけだが、波止場での展覧会では効果的な解決策を見出すまでには至っていない。むしろ、梅津との2人展とほぼ並行して佐藤がMAT, Nagoyaと企画したグループ展「絵画の何か Part2」が危機に対する対処法という点では示唆に富む。本展は1935年生まれの加藤松雄と、ともに42年生まれの原健、山村國晶による3人展であり同プログラムの企画展としてはおそらく最高年齢のグループ展である。3人とも1970年代より作家活動を本格化させ、数十年にわたって抽象的な平面作品を制作し続けている。会場のホワイトキューブに並んだ彼らの作品は、数十年前の作品とは思えないほど瑞々しくコンテンポラリー(今日的)に見える。佐藤は最近の若手作家における抽象絵画の興隆を相対化させるべく、彼らの作品を展示したにちがいない。また、彼ら3人は刺激的な前衛芸術運動や世間を席巻した「もの派」、そして1980年代、にわかに起きた絵画への回帰ともほぼ無縁のまま絵画平面に挑み続けてきた。一般に知られる戦後美術の展開と彼らの作家活動の間には一定の距離がある。
そのような彼ら3人の歩みは、決して、佐藤の抱える危機感に直接答えを指し示すものではない。けれども、表現の普遍性と個人の限界や、絵画の外側との関係性、そして表現の動機について、彼らは佐藤と同様に繰り返し問い続け、その時々で消化しながら現在まで制作を続けているように見える。画布上のイメージの現れを厳密に制御しつつ、意図的にそれに抗う要素を導入する彼らの制作過程(*4)には、積極的に難題を引き受けようという覚悟すら感じられる。おそらく、佐藤はこの展覧会を通して彼らから、恒常的に緊張感や危機感を抱え続けるタフさや、それによる活動の厚みを習得したのではないだろうか。
ここで再度、最初の問いに立ち戻りたい。梅津は日本の近代美術の起源そのものから疑い、その問題含みの起源を忘れるべからずと何度も指し示す。そして、黒田清輝の時代から軌道修正すべく、個人あるいは集団でその黎明期から美術史を生き直すことを目指す。一方、佐藤は梅津のように根本からの解決を目論むのではなく、先の世代から問題系を継承し、それによって自作にも、また自分が属するアートシーンにも必然性と強靭さを付加しようとしている。すなわち、両者の拠って立つ足場はともに不安定なものであるが、前者は、先行する美術表現に対する抜本的な否定と改革によって土台の基礎からつくり直そうと試み、後者は先達が抱え続けた限界や矛盾をあえて引き継ぎながら、持久戦に持ち込もうとしている。梅津のやり方は蟷螂の斧ともなりかねずリスクが高い。一方、佐藤はどこまでも忍耐力が必要とされる。けれども、それぞれ適した方法で過去の蓄積と向き合っている。そして、自らの足元を検証して浮かび上がった問題系を、現在、未来へと転送し、創造の糧とする貪欲さは、私には希望とも映るものだ。
脚注
*1──それを梅津は「フラジャイルモダンペインティング」と呼称しており、そのなかには佐藤克久も含まれる。そして、それらがモダニズムの理論を十分に理解せぬまま手わざや物質感によって絵画性を担保しており、モダニズムはただの風味と化していると指摘している。
*2──佐藤が名古屋港エリアを拠点としたアートプログラムMinatomachi Art Table, Nagoya [MAT, Nagoya]と企画したグループ展「絵画の何か Part2」(Minatomachi POTLUCK BUILDING、Exhibition space)のチラシより抜粋。
*3──「絵画の何か Part2」展のトークシリーズ「絵画の夕べ 危機/不定形」に際して佐藤が関係者用に用意したステートメントより抜粋。
*4──例えば、加藤の絵画は矩形を二次元上に何層も重ねることでつくられているが、その矩形を無視するかのようなステープルの跡が画布には大量に残っている。つぎはぎめいたステープルの凹凸は純粋な二次元のイメージ形成を下地から妨げているように見える。