2024.2.19

「CURATION⇄FAIR」が目指す既存の枠組みからの脱却。キーパーソン3人に聞く

東京・九段下の「kudan house」を会場に行われる新たなアートイベント「CURATION⇄FAIR」。展覧会とアートフェアを2部構成で開催し、シニアアドバイザーとして山本豊津が、キュレーターとして遠藤水城が参加する。世界的にも珍しいこの取り組みが狙うものは何か? キーパーソン3人に話を聞いた。

聞き手=塚田萌菜美

kudan house内観
前へ
次へ

アートフェアとキュレーションの新たな関係がつくれる(インディペンデントキュレーター・遠藤水城)

──まず今回の企画に遠藤さんが参加された経緯を教えてください。

 主催のユニバーサルアドネットワークさんとは、昨年開催された「art stage OSAKA」で展覧会構成を担当させていただいて以来のお付き合いで、これが2回目です。基本的にアートフェアという立て付けがあり、アートフェアが増加している現状のなかで、そこを切り拓くような何か新しいことをしようとしている。そこで生まれたのが、キュレーションされた展覧会とアートフェアの組み合わせだと理解しています。僕はフリーのキュレーターですが、自分がやりたいことだけをやるのではなく、マーケットとの関係のなかでキュレーションがどう試されるか、ということには興味があったので、今回の役割をお引き受けしました。

遠藤水城 撮影=稲葉真

──遠藤さんが担う展覧会のテーマは「美しさ、あいまいさ、時と場合に依る(The beautiful, the ambiguous, and itself)」です。作品には古美術から現代まで、素材も幅広い作品が並ぶかと思います。これは、会場であるkudan houseと何か関係があるのでしょうか?

 そうですね。kudan houseは洋館ですが、じつは2階に和室もありまして、和洋折衷でありながらその他の現代的な要素も含んだ場所です。その複雑な組み合わせがとても日本らしい。まずこれが場所とテーマの関連性です。

kudan house

 次に「美しさ、あいまいさ」ですが、これは、1968年に川端康成がノーベル文学賞受賞の際に行った講演のタイトル「美しい日本の私」と、その26年後に大江健三郎が同じくノーベル文学賞を受賞し行った講演「あいまいな日本の私」から着想を得ています。

 ここで「美しい」と称揚されている川端の日本というのは、私たちが割と耳にする日本性の典拠になっている側面があります。独自の自然観や主体のなさ、「空虚さ」や「もののあはれ」とかですね。一概には言えませんが、これは強く日本の古美術・骨董の価値付けに作用している言説だと思うのです。いっぽうで大江は、日本が西洋と引き裂かれているとか、日本語が翻訳によって変質していること、近代の矛盾を引き受けていることなどをしてアンビギュアス(あいまい=両儀的)な日本像を提示しています。これは、じつは日本の近現代美術を強くそれたらしめている、規定してきた言説だと思います。二人のノーベル文学賞講演を、それぞれ古美術と近現代美術に振り割るようなかたちで、今回のテーマを設定したのです。それがこのkudan houseとも響き合っている。

 そこから「日本の私」を除去したときに残るモノだけについて考えたい。その主語の大きさをまずは切り離す。それは英題にも表れていますが、「myself」ではなく「itself」とすることで作家や鑑賞者を後景にし、作品を前面に押し出したいと考えました。なので展覧会では古美術から近代美術、現代美術までが 同一線、同一平面上に並べられるのです。

李朝白磁壷 李氏朝鮮時代 18世紀 Photo by 野村知也
香月泰男 机の上 1956
シャプール・プーヤン First Brick 2022
Courtesy of the artist and Tokyo Gallery+BTAP / Photo: Kei Okano

──この建物自体は旧山口萬吉邸をリノベーションしたものなので、ライフサイズ、つまり大型のインスタレーションなどは展示しにくいですよね。そうした制約についてはどうお考えですか?

 それはもちろん制約ですし、家具など日常的なものも配置されているのでプレーンな空間ではない。作品だけに集中するということができないというのも制約です。また今回は決まったギャラリーから作品を選ばなくちゃいけないという条件もある。場合によっては、作品もあらかじめ提案されています。ただ、その程度の制約でキュレーションができないというのは、おもしろくないですよ。

 普通はそうした制約はすべてキュレーターの自由を損なうものだと思いますが、では逆に予算や図面だけをもらって「はい、どうぞ」と依頼されるのは自由なのかというと違いますよね。その瞬間、僕の場合は逆に自分で多くの条件を設定していくのだから。作家や作品を選ぶ、タイトルやコンセプトを考える、空間に自由に作品を配置する、といったキュレーションの専門性に付与されがちな事柄は、決してキュレーションの本質条件ではない。僕はそう思っています。キュレーションの自由を主張してキュレーションの価値を高めるのではなく、キュレーションにできることの「せいぜい」を明示して、キュレーションの武装解除をしながら、作品それ自体の可能性を開いていく方が良いと思っています。

遠藤水城 撮影=稲葉真

──遠藤さんは海外でも活動されており、大きな視点で日本のアートシーンも見られてきたと思います。いっぽうでマーケットとの接点はあまり大きくなかったかと思いますが、今回のようにフェアと関わる意味を教えてください。

 アートフェアの世界ではアート・バーゼルを中心とした「バーゼル・モデル」みたいのがありますよね。フェアが様々なプログラムで構成されており、それぞれのプロフェッショナリズムが高いレベルで拮抗していて、刺激を与えながらテンションを高めている。それはひとつのモデルとしては理想的だなと思っています。いっぽうで日本のアートフェアにはキュレーションや批評が足りないとも感じていました。もっとアカデミズムの関係者がフェアに来てもいいし、キュレーションする場所もあっていい。

 僕には好きな光景があるんです。アート・バーゼル香港の初期の頃に、学校の先生が小学生や中学生を引き連れて見に来ていたんですよ。そこで初めてピカソの作品を見たりするわけです。アートフェアがそういった美術鑑賞教育に組み込まれているというのがすごく印象に残っていて。アートフェアが美術館とは別の公共性みたいなものを有するという状況が、現実としてはすでに起こってるんですよね。今回の「CURATION⇄FAIR」に批評プログラムはないですが、アートフェアとキュレーションの新たな関係がつくれるし、世界的に見ても新しいアプローチになり得ると思っています。

 すべてがバーゼル・モデルに向かっていくのではなくて、いろんなパターンがあっていいのではないでしょうか。マーケットやアカデミズムやアクティヴィズムが「ふにゃっと混ざっている、矛盾している、でも成立している」となる方が自然だった気がするんです。いまは美術の世界でそれぞれが分化しすぎており、それぞれの制度やフォーマットを既成概念にしすぎている。だからひとつの可能性としてこの「CURATION⇄FAIR」のパターンは十分あり得るし、世界的に見てもこういうバリエーションをしっかり筋を通して示していったほうがよくなると思っています。

あえて閉じるフェアを(東京画廊+BTAP代表・山本豊津)

──遠藤さんにも伺った質問ですが、今回の「CURATION⇄FAIR」は展覧会とアートフェアの2部構成です。その狙いをお聞かせください。

 これは、「価値」と「価格」の関係なんです。僕らが付けている美術品の価格は任意であって社会化されていないものですが、アートフェアでは出店するギャラリーが価格を公表するので社会化されます。いっぽう価値は本来美術館が担ってきました。ところが市場が大きくなり、価値と価格の関係が我が国では正しく理解されていないため価格が価値だと思われすぎてしまった。今回は千載一遇のチャンスで、この2つの関係をカバーできるのではないか。

山本豊津 撮影=稲葉真

──kudan houseという場所はそこに強く影響しますか?

 価値という点で言うと、美術によって住む家の中に精神的な奥行きをつくることも重要なのです。近代以前の日本人の生活には家の外や内に聖なる場所があった。それを失ってきたなか、その代りにアートがその聖なる場所を占める大きな要素となってきたと言えます。アートは歴史を有するもので、作品自体は変化しない。それを毎日見ることで、所有者は内省することができるでしょう。アートフェアや美術館に行っても、たくさんの人のなかでたくさんの作品を見るという状況では、内省は起こらない。今回、我々は遠藤さんがキュレーションした展覧会を行うことで鑑賞者に内省を促し、そのあとにアートフェアを行う。構造的には社寺仏閣にお参りして、仲見世でお土産を買うようなものです。既存の日本のフェアではなかなかこの内省の構造がつくれなかった。今回は1つの建物で展覧会とフェアができるので、これまでにない機会となるでしょう。

 またkudan house は特殊な属性がある空間で、日本が初めて近代化を受け入れた時期に建てられたものです。日本人が日本人らしく、西洋建築で暮らしていた場所。だから掛け軸も絵画もかけられるようになっています。今回、そこで展覧会をやることで、日本人の生活の中の美の感性が見出せるのではないでしょうか。世界のギャラリーは空間をホワイトキューブ(ニュートラル)にして、作品を買った人がそれを自分の生活に馴染ませていきますよね。しかし、今回は初めから生活に馴染むようなかたちで作品を見て、買うことができます。これも実験的な試みですね。

kudan house 内観
kudan house 内観

──建築的な制約で多くの人々を呼び込めないと思いますが、その点はいかがですか?

 あえて入場者数を絞りたかったのです。何百人も一気に入るような空間では、先ほど言ったような内省は起こらない。世界の美術館でも、日時指定にして鑑賞体験を確保しようとするところもありますよね。人間の頭だけ見て帰るような状態ではなく、数十人であれば、ゆっくり落ち着いて作品を見れるし、内省も可能になるでしょう。入場者数やスペースのキャパシティの実験もしてみたいのです。

──近年、世界的にアートフェアが増えており、出展者も似たり寄ったりという状況です。今回はそうしたマーケットへの問題提起でしょうか?

 そうです。アートフェアはただ乱立するのではなく、その地域にあったかたちがあるでしょう。規模や来場者数もそれぞれに適したキャパシティがあるはずです。そうした点も、今回の「CURATION⇄FAIR」で試してみたいですね。

──ただ、来場者を絞ることによって初心者は行きにくくなるのでは、と思ってしまいますが?

 質を上げることは初心者が来づらくなるということですからね。でもね、少なくていいんです。重要なのは、「意志を持った初心者」であって、そうした人を募りたい。不遜な言い方かもしれないけど、お客さんも店を選ぶように、店もお客さんを選んでもいいと思います。両者のコミュニケーションが成立したときに作品が動く。それが良いんです。

 いま、世界はグローバルに開かれたフェアばかりですよね。でも僕は、「自ら閉じるアートフェア」をやってみたい。今度のフェアは、僕たちが自ら閉じた空間をつくるということ。 それが今回のような建築の制限に非常にマッチしているわけです。

山本豊津 撮影=稲葉真

意見の交流促す場に(ユニバーサルアドネットワーク代表・川上尚志)

──kudan houseの歴史的・建築的特徴が、本企画にどのように貢献すると考えますか?

 まず、アートを「見ること」と「買うこと」をインタラクティブに体験できる、私たちにとっても新しい挑戦である本企画をkudan houseで開催できることを心から嬉しく思っています。kudan houseは、実業家・山口萬吉の邸宅として建てられ、鉄筋コンクリートの黎明期の代表作として、日本の歴史に名を刻む名建築です。

 日本の近代建築らしく西洋の様式を取り入れた場所ですので、豪奢な邸宅の中にもきっと「懐かしさ」を感じていただけるでしょう。この「懐かしさ」や、日本人の生活の中にある美意識などだったりを、感覚的に発見、再発見していただける会場だと思っています。

 また、会場周辺の九段・神楽坂エリアは、古いものと新しいものが共存し、江戸情緒とパリの雰囲気が一体となった街とも言われています。「CURATION⇄FAIR」をkudan houseで継続的に開催することで、九段・神楽坂エリアに従来とは違う解釈を生み出すことができるのではないか。訪れた人が自分の心の中を見つめ、何を思い感じたかを改めて熟考するきっかけになれるのではないか。その変化を生み出す起点になることは、面白く魅力的なものだと思っています。

川上尚志 撮影=稲葉真

──「CURATION⇄FAIR」を通してアートを通じたネットワークも創出したいということですが、どのように生み出すことを期待していますか?

 CURATION⇄FAIRのロゴには、展覧会とアートフェアの相互補完的な関係だったり、交換としてのアートの購入、そしてキュレーターやギャラリーなどアートに関わる人も、そうでない様々な分野の人たちに対しても、意見の交流を促す言論の場でありたいという思いを込めています。

 個人的にも、じつは今回の企画をとても楽しみにしていて、「CURATION⇄FAIR」を通じて、もっと自分の中での「日本らしさ」や「美しさ」を語れるようになれたら良いなと思います。そして、自分の日々の生活のなかで、それぞれの考察を深めるために「アートを買う」、そんな意思を持った方が増えたら最高ですね!