「テクノロジー×民藝×仏教」で生み出された落合陽一による《オブジェクト指向菩薩》が高山の古建築で開眼
岐阜県高山市の重要文化財・日下部家住宅を活用した日下部民藝館で、メディアアーティスト落合陽一の個展「ヌル即是計算機自然:符号化された永遠, オブジェクト指向本願」が始まっている。
岐阜県高山市の重要文化財・日下部家住宅を活用した日下部民藝館で、メディアアーティスト落合陽一の個展「ヌル即是計算機自然:符号化された永遠, オブジェクト指向本願」が始まっている。
江戸時代に幕府直轄領として栄えた高山には、当時から続く商家や民家が多く残る。その名も「古い町並」と称された大規模保存地区もあり、日本的風情にあふれている。
「古い町並み」へと連なる一角に、日下部民藝館はある。日下部家は、幕府の御用商人として栄えた名門商家。明治初期に飛騨の匠により建造された日下部家住宅は、昭和41年に重要文化財指定を受け、以来民藝館として一般公開されてきた。
切妻造り段違い2階建て、一部吹き抜け総檜造りのこの主屋全体と蔵を舞台に、落合陽一の個展は開催されている。メディア・アーティストとしてあらゆるメディウムの可能性を探究し、見えるものと見えないもの、アナログとデジタル、古いものと新しいもの、極大と極小など対極にあるものの間にコミュニケーションの橋を渡し、近年は仏教の世界観や柳宗悦の民藝思想に傾倒する落合にとって、高山の日下部民藝館は、自身の表現を十全に展開し得る格好の器だろう。
実際、民藝館と落合の結びつきは強い。今回は2022年の「偏在する身体 交錯する時空間」展に続く2回目の個展となり、今後も数年にわたりプロジェクトが継続される予定だという。今展で落合は、日下部民藝館全体をひとつの巨大な曼荼羅に見立て、インスタレーションを展開した。邸内のどこにいても落合作品の気配が感じ取れる構成となっている。
では暖簾をくぐり格子戸を開けて、建物内に足を踏み入れてみる。眼前に、囲炉裏を切った室が現れる。光を感じて天井を眺めれば、立派な梁の奥に映像作品が埋め込まれていた。《ヌル即是計算機自然》だ。
いくつもの円が重なる曼荼羅映像の中心に、梵字が浮かび上がっている。鏡面仕立ての立体に埋め込まれているので、反射した図像は上下左右、無限に続くように見える。さらに図像は、音に感応して脈動し続けている。人の意思とは無縁に自律して動く内臓器官か、勝手に増殖を繰り返す細胞のようだ。
この世はすこしずつ異なる様相を見せつつ無限の広がりを持つとの世界観を、二次元の紙上に表現したのが密教における曼荼羅図。現代ならこれをどう表現し得るかと考えた末に生まれたのが今作である。
この映像の元となった静止画は、「撮像曼荼羅考」シリーズとして、邸内各室の床の間に掛けられている。京都・醍醐寺収蔵の曼荼羅を、落合が高解像度デジタル撮影し、手ずから古典技法のプラチナプリントで再現した作品だ。
点在する曼荼羅の図像を求めて邸内を巡っていると、ほうぼうで不意にジリリリン……とノスタルジックな音が鳴る。音の出どころを目で探れば、そこには黒電話が設えられている。これらも落合が仕掛けた作品で、《ファントムレゾナンス:民藝とオブジェクト指向哲学》という。
時空を超越して過去と現在、物質と非物質、人と計算機自然が共鳴することを目指し、その結節点として黒電話という物体を採用している。
うろついていると、急峻な階段が見つかった。2階に上ってみると、奥まった室に写真作品《撮像舞踏般若心経考》と映像作品《身体化する般若心教, 踊る計算機自然のマニ車》がある。
般若心教を身体中に書き込んだ裸体の女性がダンスするさまを、静止画と動画で撮ったもの。古典的仏教テキストとデジタル文化が身体を媒介にして交わり合うことで、精神とテクノロジーの共存可能性を示している。
ほかにも邸内を歩き回るごと、至るところで落合作品に遭遇する。曼荼羅を眺めているときと同じように、「見尽くした」という感覚はいつまで経っても得られない。そもそも、展示の核を成す作品との対面もじつはこれからだ。それは2階の最奥の一室にある。本尊然として鎮座する《オブジェクト指向菩薩》だ。
一室の中央に座す菩薩像は、人間とほぼ同じサイズ。身体に巻き付いているのは、初期コンピュータの記憶媒体だったテープの束だろうか。思惟にふける表情は端正で、ありがたさに溢れる。自然界とデジタル界を自由に行き来し、物質と非物質の世界をつなぎ、自然と生命の全体を理解する新たな視点を提供してくれる存在であるという。
造形法はこうだ。生成AIの文字データから二次元の姿をまずつくり、そこから三次元データを起こす。それをもとに家具職人が木から姿を削り出し、仕上げに当地の職人が彫り込んだ。古来のフォーマットに新しいテクノロジーを載せてあるわけで、古今の智慧がここにみごと融合している。
柔らかな曲線を持つ像に見入っていると、これから《オブジェクト指向菩薩》の開眼法要を執り行うという報せが入り、参列することができた。
落合の知己や関係者、メディアが居並ぶ中、醍醐寺執行の仲田順英が菩薩の前へ進み出て、法要が始まる。朗々響く読経と集った人たちの祈りを身に浴びて、菩薩は何やらありがたいものへと変貌していくように見えた。
法要後、仲田執行の言葉を聞けた。
「色即是空、空即是色、と先ほど唱えさせていただきました。カタチあるように見えてもそこには何もないかもしれず、ないと思えばまたあるかもしれない。そうした世界観は、いまの時代ならデジタルで表されています。デジタルと現実の融合、そこに私たちが目指す未来があるでしょうし、真言密教が求める世界との近しさも感じます」。
落合陽一の活動や落合作品については、どう見ているか。
「私たちにもすんなりと呑み込めるものです。使われている言葉が少々違うだけで、根本は仏教の教えとつながっていると感じます。落合さんのような方はかつてなら、僧侶になるしかなかったでしょう。真理を探究して人間学を突き詰める場は仏門内のみでしたから。いまは、一般の人にわかりやすく救いを説き知を提供する役割が、科学へと移り変わってきた面があります。落合さんの活動は、科学と仏教世界を橋渡ししてくれるものです」。
開眼法要の施主になるという得難い機会を終えた、落合陽一本人にも話を聞けた。
「開眼法要を経て、《オブジェクト指向菩薩》の見え方が変わったのは驚きです。明らかに凛々しくなりましたから。像について語るとき皆さんが、『オブジェクト菩薩「様」』と言い始めたのもおもしろい。美術作品はモノですが、仏像になると単なるモノじゃない扱いとなるわけですね。そうした変化を目の当たりにできたのは興味深いことでした」。
曼荼羅の中に身を投じて彷徨うような、宗教体験にも近い鑑賞体験が、日下部民藝館全体で実現されている。