「梅津庸一 エキシビションメーカー」(ワタリウム美術館)開幕レポート。きっとあなたも展覧会をつくりたくなる
東京・外苑前のワタリウム美術館で美術家・梅津庸一がワタリウム美術館のコレクションを現在活躍中の作家の作品を加えつつキュレーションして展示する展覧会「梅津庸一 エキシビションメーカー」が開催されている。会期は8月4日まで。
東京・外苑前のワタリウム美術館で「梅津庸一 エキシビションメーカー」がワタリウム美術館で開催されている。会期は8月4日まで。
本展はワタリウム美術館設立以前(ギャルリー・ワタリ時代)に、前館長である和多利志津子の交流によって集められた作品群を展示するとともに、そこに現在活躍中の作家の作品を加えるという試み。キュレーションは美術家・梅津庸一が務めている。
展覧会タイトルである「エキシビションメーカー」は、1990年、ワタリウム美術館初の美術展をキュレーションしたスイスの美術家/キュレーター、ハラルド・ゼーマンが「展覧会をつくる人」という意味で使っていた言葉。いまでは美術以外の分野にも浸透し、ときに濫用される「キュレーター」「キュレーション」という言葉がまだ浸透していなかった時代の精神を振り返り、作品をつくり、選び、展示するとはどういうことかということを改めて問い直そうとする姿勢が感じられる。
梅津は本展に際して次のようにコメントした。「本展で扱うコレクションは、国公立美術館の(正統とされる)美術史を意識しながら集められたものとは異なり、和多利志津子の個人的な審美眼や交遊にもとづいているため、親密な印象を与えるだろう。現代の作家とともにこのコレクションを再考することで、改めて展覧会とは何かを問う契機にもなるはずだ」。
展覧会はワタリウム美術館の2〜4階の展示室を使用し、大まかに4つの章立てをされている。梅津はこの章立てについて「ふわっとしたもので大きな意味はもたない」と言うが、それでも各章に込められた文脈を探りながら見ていきたい。
第1章は2階から始まる「カスケードシャワー」だ。「カスケードシャワー」とは電子や光子が物質内に入射して増殖する現象のことで、そのさまを滝に例えてこう呼ばれる。ワタリウム美術館の展示室の大きな特徴でもある吹き抜けの壁には、このタイトルと呼応するように様々な色の絵具が上から下へと滝のように垂らされている。
展示室の床には廃材や家財道具などを組み合わせてオブジェをつくることで知られる土屋信子の作品が置かれ、その周囲の壁面には60年代にイギリスのポップアートの旗手として注目されたR.B.キタイのシルクスクリーン作品や、同じく60年代のイタリアの前衛運動「アルテ・ボーヴェラ」に参加していたアリギエロ・ボエッティのボールペンによる絵画などを展示。ほかにも壁面には安東菜々や篠田桃紅、中西夏之、萩原朔美、梅津庸一、佃弘樹、山﨑結以らの作品が連なり、志津子が自らと同じ時代を生きる者として見つめたであろう作家たちと、梅津が現代における美術の複雑な様相を汲み取りながら選んだであろう作家が並列される。
本章では、版画作品の多さにも注目したい。大衆に広く届くという観点で版画に多くの可能性が託されていた時代の作品も多いが、これらが現代のユニーク作品にも匹敵する強度を持っていることにも気づかされる。こうした「価値の問い直し」は本展に通底するテーマであるともいえるが、とくに第1章からは強く伝わってくる。
第2章「眠れる実存たち」は、第1章と階を同じくするが、ピンク色のパネルで囲われており、また異なる印象を来訪者に与える空間となっている。この章で目を引くのは中央に鎮座する、星川あさこの巨大なベッドを使った作品だ。ベッドには「キャラクター化」されたような人物が横たわり、その上にはぬいぐるみや小さな人形、プリクラとともに、缶チューハイが置かれている。星川はこの横たわる人物を「アルコール中毒の入院患者」と説明しており、たしかに「アルコール中毒という実存を持った存在がベッドに横たわり眠っている」という点では章のタイトルを反映した作品といえる。
この作品の周囲にはシュルレアリスムの影響を受けたハウル・ヴンダーリッヒや、「日本のダリ」とも称された古沢岩美、シュルレアリスム作家を自称した高松ヨクらの作品が並ぶ。「実存」に対して緊張した関係を構築してきたシュルレアリスムの作家が集まっていることも、この章が「実存」を問うていることと関係しているのだろう。
3階展示室の第3章「あたらしい風」では、猪熊弦一郎、桂ゆき、アカイ・フジオ、麻田浩、靉嘔、宇野亞喜良らの作品とともに、梅沢和木、鈴木貴子、息継ぎらの作品が展示されている。ここは「キャラクター」を表象する絵画について思考する章といえる。ここで扱われているキャラクターは、アニメやマンガ的な造形を持つキャラクターにとどまらない。
この章の作品は具体的なキャラクターの像が描かれていなくても、何かしらのキャラクター性をそれぞれの絵画が持つ空気に仮託させているように思える。こうしたキャラクターの再定義の試みは、タイトルの「あたらしい風」に通じるのかもしれない。
4階展示室の第4章「黒く閉じて白く開くように」は、駒井哲郎の作品から始まることからもわかるように、明確に版画をテーマとした章だ。この章で注目したいのが、駒井、中林忠良、梅沢和雄、そして梅沢和木というラインだ。
駒井の教えを東京藝術大学で受けた中林は銅版画の道に進んだが、梅沢和雄はその教え子であり、そしてその息子に梅沢和木がいる。アニメをはじめとしたキャラクターをコラージュすることで知られる梅沢和木の絵画を、その実父に連なる戦後の銅版画の歴史のなかに位置づけるというのは新たな試みといえるだろう。梅沢がこれまで用いてきたキャラクターは出版や映像において複製され続ける存在であり、そこには戦後日本の版画がある側面で重視した大衆への訴求性にも通じるものがある。
本展にあわせて梅沢は駒井、中林、父である和雄の作品に現れるモチーフをコラージュした作品を制作し、それらの実作品とともに展示している。そこにはキャラクターのみならず、キャラクターを支えてきたメディアの構造にまで言及しようとする、新たな挑戦が感じられるはずだ。
極めて個人的に構築されたコレクションに文脈を与え、観客の新たな価値判断の機会をつくろうとする本展は、キュレーションの本質的な意味を改めて考えさせられる展覧会だ。会場を訪れた観客は、梅津の提示した流れに沿ってエキシビションに挑戦することができる。梅津の引いたこの導線はただ肯定するだけでなく、批判してもいいだろう。観客一人ひとりがこの展覧会を下敷きに、それぞれの展覧会をつくる。そんな楽しみがここにはある。