「ティーセレモニー」は「茶の湯」にあらず、しかし......。荒木悠評「トム・サックス ティーセレモニー」展
アートの分野のみならず、ファッション界などからも注目を集めるトム・サックス。その日本における美術館初個展「ティーセレモニー」は、大きな評判を呼んでいる。日本の「茶の湯」を換骨奪胎したようなこの展覧会からはユーモアとともにトム・サックスの真剣な眼差しが感じられる。本展とトム・サックスの制作姿勢を、アーティストの荒木悠が解き明かす。
「悪魔は細部に宿る」
東京オペラシティ アートギャラリーで開催中の「トム・サックス ティーセレモニー」展を再訪した。THEATERで映像を鑑賞後、最初の展示室で出迎えてくれるのが、精巧につくられたイサム・ノグチのレプリカ《Narrow Gate》(2018)だ。まず目を奪われるのがその圧倒的につくり込まれたディテール。曲面部分にはロールペーパーの芯があてがわれていたりと、玄武岩のオリジナルが段ボールと樹脂のみで見事に再現されている。
続くHISTORICAL TEA ROOMと呼ばれる展示室には、これまでのトム・サックスのティーセレモニー小史を振り返る道具類(=作品群)が陳列されており、こちらもかなりの見応えである。樹脂で丁寧に表現されたシンダーブロックの曲線、PEZ専用の収納トレイ、NASAのロゴ入り茶碗などなど、徹底された歪さと几帳面さ、また遊び心と真面目さが織りなす絶妙な造形的バランスは、見るたびに新たな発見がある。
「神は細部に宿る」(*1)とよく云われるが、細部へのこだわりがその作品の善し悪しを決める。トム・サックス自身も建築を学び、かつてフランク・ゲーリーのもとで家具制作をしていた経歴も相まって、彼の仕事を見ていると自然とこのフレーズを思い出す。ただし彼の場合は《Shoburo》(2012)の内部に描き込まれたミニ掛け軸の五芒星が示すように、どちらかというと宿っているのは悪魔なのかもしれない。その悪魔的ディテールに注目しつつ、トム・サックス作品の魅力に迫りたいと思う。
制作の基本姿勢については、これまでにも様々なインタビューやトークでも触れられてきたが「自分が欲しい物をつくる」のと「自分のコミュニティーのためにつくる」と至ってシンプルだ。その証拠に、作家ウェブサイトに載っている最初期の作品が、1974年の《Untitled(Nikon)》。これは当時8歳だったトムが、Nikon FM2を買えなかった父親のために粘土でつくりプレゼントしたものである。この"カメラの彫刻"が物づくりに対する原体験だと本人が語っている通り、その後もモンドリアンのペインティングをテープで自作したり、エルメスのケリーバッグを合板で再現したりと、つねに一貫している。本格的に茶道を極めるには時間とお金がかかりすぎるので、自分の流派をつくってしまうほうが手っ取り早い。このどこかイノセントでなおかつ合理的な思考は、夏休みにレモネード・スタンドをつくり、道行く人々に売ってお小遣いを稼ぐ子供たちから、自宅のガレージで日曜大工に勤しむ父親たちの姿といった、典型的なアメリカD.I.Y.文化と密接につながっている。
彫刻家トム・サックスの何よりの持ち味は、モチーフと素材の組み合わせ方で生じるズレの妙と不完全さの追求にあると私は考える。ブリコラージュ(寄せ集め)と言ってしまえばそれまでかもしれないが、彼の美的センスと造形的判断には「ghetto D.I.Y.」や「ghetto engineering」(*2)といった文脈を強く感じる。身の回りの物を別の物で代用し修復しているのには変わりないのだが、「貧しさ」からくる“見立て”が斬新であり、インターネット・ミームとしてその筋のまとめサイトも多い。実践例が掲載されているウェブサイトのいくつかを紹介する(余談だが、なかには「超芸術トマソン」との類似が見られる物件もある)。
https://www.ebaumsworld.com/pictures/66-epic-pics-of-the-best-ghetto-engineering-feats/85400070/?view=list
http://www.superstreetonline.com/features/1311-top-10-worst-diy-car-repairs/
https://www.ebaumsworld.com/pictures/ghetto-repairs/80839471/
https://www.reddit.com/r/ghettodiy/
野暮であることも承知で、重箱の隅をさらにつついてみる。
素材として頻繁に登場するConsolidated Edison社(通称・Con Ed社は、米国ニューヨーク州の大手エネルギー供給会社)の柵。注意を引くオレンジと白のこの板は、路上工事をする際などに立てられる仮設柵であり、もはやトム・サックス作品には欠かせない要素だ。一見、どこかから拾ってきた廃材を再利用しているのかと思いきや、細部を観察するとこれらもひとつひとつ自分たちで塗装し、本物っぽく仕立て上げていることに気づく。「ビス以外は全部手づくりするのが理想なんだよね」と語る彼の執着心に触れた途端に、これまでに観た作品の表面と物質の関係や、ハンドメイドとレディ・メイドの境界をめぐる私の意識は拡張される(結果、展覧会場をグルグルと何周もしてしまった)。この飛躍と円環は、四畳半の茶室に小宇宙をみる感覚と近いのかも知れない。斯くして「ティーセレモニー」と「スペースプログラム・マーズ」は同じ次元で接続可能であり、実際にこれまでも並置されるかたちで展示されてきた。
しかし、矛盾も大いにある。日本語の「茶の湯」「茶道」が英語圏ではいまのところ「Tea Ceremony」または「The Way of Tea」としか翻訳できないように、概念がどこまで理解されているかは不確かさが残る。トム・サックスはこの限界をとても良く理解していた。
「ティーセレモニー」はあくまで、外国人が歪なカタカナで書いた「ティーセレモニー」にすぎず、いわゆる茶の湯とは似て非なるもの。見方によっては、邪道だと思われてしまうだろう。しかし、千利休をリスペクトしているトム・サックスは、そのような固定観念と権威主義に塗れてしまった “茶道” にこそ疑問を投げかける。上流階級の、それも一部の者しか楽しめず、形骸化されただけの “茶道” のほうがむしろ本筋から外れてしまっているのではないか、と。
“道を外す”と書いて“外道”と読む(ちなみに、「ghetto」のアメリカ英語の発音はカタカナで表すと「ゲットー」ではなく「ゲェドォ」に近く、奇しくも「外道」との親和性の高さを感じてしまう)。誤解やズレも含め、自分流の「ティーセレモニー」こそ本質を追求している、と言ってのけるその切り口の鋭さが、展覧会全体を貫く快さを演出している。また、日本の鑑賞者が茶道の文脈に引っ張られ過ぎると「いえいえ、これはあくまでも彫刻の展覧会なのですよ」と軌道修正させる回路がきちんと用意されている手つきも鮮やかで巧妙だ。
お父さんのためにつくった粘土のカメラ。それが例え“模造品”だとしても、このときに少年の手を動かせた初期衝動は、紛れもなく本物(genuine)である。 合板のケリーバッグも、いまや本家本元よりも市場価格が高くなっているそうだ。本来自分のためにつくった物を他人が欲しがるようになり、その結果いつの間にか価値の転倒が起こる。最高にクールではないか。ゲェドォ・スピリットを持ち合わせた彫刻が、徹底されたつくり込みにより一転してハイ・アートとなるところに現代の錬金術とロマンと皮肉があり、利休やデュシャンの精神と時空を超えて戯れているようである。
設営の合間、トムと彼のスタジオ・メンバーたちはどんなに疲れていても「The reward for a good work is more work.」と呪文のように唱えて黙々と作業をしていた。毎日、仕事に従事できることへの純粋な喜び。求めていることは、ただそれだけである。この地道な積み重ねなくしては、人類は宇宙へ行けなかったであろう。薄い板の層でできている合板の断面を見ながら、そんなことを思い浮かべていた。
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......と本稿の依頼を引き受ける前は恐怖しかなかったが、「be afraid and do it anyway.(怖れろ、けどやれ。)」(*3)というトム・サックスのスタジオ・モットーに感化され、こうしてなんとか入稿できた次第である。拙いながらも、初めてのレビューのわりには、なかなかシャレた結びができたではないか......。安堵感と共に、NASAの椅子に再び腰掛ける。「ティーセレモニー」の映像を見ていたら、ふと目に飛び込んできた「SEN NO RIKYO」の文字。シアタールームで一人静かに崩れ落ちたのは、言うまでもない。
*1ーー建築家ミース・ファンデル・ローエが頻繁にいっていた標語で、彼の言葉と思われがちだが、実際に誰が言ったかは諸説あるらしい。
*2ーーGhetto(ゲットー)という単語は、名詞だとユダヤ人強制移住区域のことを指すが、形容詞の場合は都会的・貧しい・安っぽい、といった複数の意味を持つスラングでもある(出典:https://eigo-support.com/ghetto/)。
*3ーー本展カタログに寄稿された「Why Make Tea in Japan」より。