戦後日本の彫刻を牽引し、彫刻教育の礎を築いた一人。佐原しおり評「清水多嘉示資料展―石膏原型の全てと戦後資料(第Ⅲ期)」
戦後の具象彫刻を牽引するいっぽうで、帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)の創設にも関わり、以降40年間にわたり同学で教鞭を執り続けた清水多嘉示(しみず・たかし)。武蔵野美術大学美術館では、そんな清水の功績をたどる「資料展」として、清水資料の全容を可能な限り展示することが試みられた。資料調査のワーク・イン・プログレスを「展覧会」というフレームで提示した本展を、埼玉県立近代美術館学芸員の佐原しおりがレビューする。
作家資料の射程
「清水多嘉示資料展―石膏原型の全てと戦後資料(第Ⅲ期)」は、武蔵野美術大学の創立90周年を記念し、同学の彫刻教育の礎を築いた清水多嘉示の資料を展示するものであった。本展に先駆けて、2011年に2回にわけて開催された「清水多嘉示資料展 大正の揺籃+モンパルナスの洗礼―甦る昭和彫刻の史実!」では、大正期から敗戦までの資料が展示され、3つの展覧会によって清水の全生涯が網羅されたことになる。
長野県諏訪郡に生まれた清水は、1923年に画家を志して渡仏した。アントワーヌ・ブールデルの彫刻との出会いをきっかけに彫刻家の道に進み、ほどなくして彼のもとで制作を始めている。28年に帰国した後、帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)の創設に携わり、以降69年まで40年間にわたり同学で教鞭を執り続けた。清水が生前所有した作品と資料は長年遺族の手元にあったが、2006年にこれらを武蔵野美術大学に一括寄贈する意向が示された。早くも翌年には共同研究が立ち上げられ、同学彫刻学科教授で彫刻家の黒川弘毅と、清水の故郷にある八ヶ岳美術館の特別研究員・井上由理を中心に10年以上にわたって資料調査が続けられてきた。
長年の研究の集大成となる本展は、戦前から戦後にかけて多くの功績を残した清水の再評価に留まらず、清水多嘉示資料を整備することで、学内外の日本近現代彫刻史研究を前進させようとする極めて意欲的な目的によって方向づけられている。展覧会を監修した黒川が「大正期の諏訪地方のリベラルな教育・文化環境、1920年代の美術家の西欧体験、帰国後の着地と30年代の記念碑的彫刻への志向、日中戦争以降の翼賛体制への関与と敗戦での処身、戦後の国際交流、昭和後期人体彫刻と美術教育―大正から昭和までを経時的に残している清水資料は、その時代における美術史のキーワードをすべて備えている」(*1)と述べるように、この資料群は清水多嘉示研究だけでなく、日本近現代美術研究全体に貢献するポテンシャルを秘めている。
ここでは、この展覧会が「清水多嘉示展」ではなく「清水多嘉示資料展」であることについて考えてみたい。近年、資料を作品のたんなる二次資料として付随させる慣習を良しとせず、資料を主役に据えた、あるいは作品と等価のものとして扱う試みが増えてきている(*2)。この流れと並行して資料の展示方法も変化しており、展示台に並べられた資料群を鑑賞者がひたすら覗き込む「首の痛くなる展示」を踏襲しない例も多く見られるようになってきた。例えば、展示具に傾斜をつける、壁面に取り付ける、データ化してiPadやモニターで見せる等々、鑑賞者の身体への負荷を減らしながら資料を見せる工夫が目立つ。しかしながら「資料展」の名を冠した本展は、作品を第一とする展覧会とも、洗練された資料展示とも異なる企図から組み立てられているように見える。
「清水資料の全容を可能な限り展示する」という方針のもと構成された本展を訪れると、まず空間を埋め尽くす資料の物量に圧倒される。展示室は、スケッチブックや絵画に加え、手紙、書物など戦後期の膨大なドキュメントによって床から天井まで全壁面が埋め尽くされ、展示台にも目一杯の資料が並び、それでも収まりきらないものはボックスに入れたまま床置きされていた。資料は主催者による選抜や解釈をほとんど経ずにそのまま鑑賞者の前に差し出されており、ここで目にする光景は、おそらく研究者や学芸員が資料調査の段階で出会うものに近い。
さらにエントランスの正面にあるアトリウムと展示室には、渡仏期から1980年までの石膏原型、約250点が並べられた。裸婦像を中心におびただしい数の彫刻が立ち並ぶ様子は、一人の作家が生涯にわたって創作に注ぎ続けた熱量を示すと同時に、清水の主たる作品発表の場であった日展や日彫展のような公募展系の展覧会空間の密度を彷彿とさせる。什器には数々の付箋やコピーが貼られており、そこには研究者たちによって、「出品歴要追加」「台ぐらつき有!!」といったライブ感あふれるコメントがカジュアルに手書きで記されていた。ここでパフォーマティブに展開されているのは、いわゆる「資料展」ではなく、全資料を地道に検証する調査作業そのものである(*3)。この意味において、本展をアーティストによる公開制作ならぬ、研究者による公開調査の試みとして読み替えることも可能だろう。
資料調査のワーク・イン・プログレスを展覧会というフレームで提示する本展は、あくまでも遺族との信頼関係を前提とし、来館者に対しても一定の配慮が求められるものであり、どこの美術館でも実現可能な試みではないだろう。しかし、いや、だからこそ、一元的な語りや権威化による包括が不可能な清水の活動の各要素──エコール・ド・パリから戦時下における記念碑制作、敗戦後すぐに構想された《マッカーサー記念碑》、権鎮圭(クォン・ジンギュ)をはじめとするアジア諸国からの留学生との関わり、要職の歴任に至るまで多領域にわたる──がフラットに示される、稀有な空間が成立していた。
*1ーー黒川弘毅「清水多嘉示資料―その意義と研究の概要」(『清水多嘉示資料|論集Ⅱ 共同研究「清水多嘉示の美術教育について」』、5頁、武蔵野美術大学彫刻学科研究室、2015)
*2ーー日本における資料展示の試みについては、次の論考が詳しい。鏑木あづさ「〈資料〉がひらく新しい世界──資料もまた物質である」(「artscape」2019年6月15日号)
*3ーー黒川によれば、2011年の展覧会も「空間が大きな展示会場で資料を実際に並べる作業は、狭い机上で行われてきた資料整理の検証」の機会であったという。(前掲書[*1]、9頁)