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2025.3.17

近くて遠い、私的な経験と普遍性とのあいだを行き来する。渡辺亜由美評「春望 Gazing at Spring」

コダマシーン(金澤韻+増井辰一郎)が企画し、昨年12月に京都で開催された「春望 Gazing at Spring」展は、2022年上海のロックダウンを端緒に私的な経験を公開の場で開示する展覧会だ。自然や社会との関わりを見つめる5人のアーティストを紹介し、私的なものがどのように普遍的なメッセージへと昇華するかを探る本展を、京都国立近代美術館の特定研究員・渡辺亜由美がレビューする。

文=渡辺亜由美

展示風景より、宙宙《Magnetic Thoughts》(2024) すべての写真提供=コダマシーン
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近くて遠い、私的な経験と普遍性とのあいだを行き来する

 師走の京都で開催された「春望 Gazing at Spring」展が筆者にとって印象的な鑑賞体験として記憶された理由は、本展が私的な経験をパブリックな場でひらき、共有することを恐れない展覧会だったためだ。

 本展の嚆矢は、展示を企画したアート・コンサルティングファームのコダマシーン(金澤韻+増井辰一郎)、そして出展作家の方巍(ファン・ウェイ)とUMAが2022年の春に上海で体験した大規模なロックダウンだ。上海では当時、新型コロナウイルス感染拡大を封じ込めるために2500万人を対象としたロックダウンが行われた。市民は外出を禁じられ、例えば同じマンションから感染者がひとりでも出ると居住者全員が強制隔離されるなど、極めて厳格な政策がとられた。その結果、食料品確保をはじめとする基本的な日常が立ち行かず、当局と市民との衝突も起こった。

 5年前に世界の人々が肌で感じた生死に直結する恐怖は今日、例えば万博誘致や、医療費の逼迫というエクスキューズ、偏った報道によって過去のものにされようとしている。「新型コロナウイルスをテーマとする展覧会」と聞き、もし「なぜ今頃?」と思うならば(私は少し思った)、年月が移り変わり、恐怖や不自由さを過去のことにしたい人間の欲望や願望を優先したいまを、私たちは生きているからだろう。

 上海でのロックダウンを端緒とする本展だが、出品作は必ずしもコロナ禍を機に制作・発表されたものではない。作品に共通するのは、人間社会の葛藤や自然への畏れを引き受けつつ創造的な抵抗を試みる姿勢であり、このことが特定の事象に留まらない奥行きを本展につくり出した。

自然と人間の関わりを描く

 会場となるThe Terminal KYOTOは、呉服商兼住居だった町屋をリノベーションした2階建ての建物だ。靴を脱いで中に入ると、かつて暮らしていた誰かの気配がひっそりと漂う。この親密な会場の最初と最後にあらわれるのは、宙宙(チュウチュウ)による水や砂、流木、時計や鏡を使ったインスタレーションである。ものとものとのあいだには小さな磁石が置かれ、わずかな磁気の作用によって動いたりかたちを変えたりと、見えない力で互いが微細に作用しあう。彼女の作品は構成要素となる素材ひとつひとつが小さく、脆く、繊細だ。そのため鑑賞者は自然と身をかがめ、目を凝らしながら作品のなかに生まれる関係を注意深く観察することになる。とくに地下の防空壕の展示では、水の入ったガラスを中心に置き、片側には小さく盛られた火山灰を点々と、もう片側には骨や落ち葉といった生命の遺物を一列に並べることで、小さなスケールのなかに大きな生の循環を想起させる空間をつくった。

宙宙《Magnetic Thoughts》(2024)の展示風景
宙宙《The Cycle of Forms》(2024)の展示風景

 方巍も自然と人間との関わりをテーマに、強いエネルギーを放つ絵画を描いた。壁一面ほどある大きな絵の中では、広い空の下で木の枝が力いっぱい自由に伸びている。生い茂る草むらの上には、寝そべる女性と、腕を上げて後ろを振り返る力強い男性の姿がある。この絵のなかでは、植物も人間もみな風のようなエネルギーに包まれている。この隆々とした男性は、自然と共生する人間像にも、その反対に自然をコントロールしようとする人間の姿にも見えてくる。

展示風景より、左から方巍《スケッチ(No.1)》《ライダー》(いずれも2024)

 こうした矛盾や葛藤を抱えた人間という生き物を「私の身体」に引き寄せて肯定するのは、パフォーマーのUMAである。掛け軸のような縦長のスクリーンには、何重もの衣を纏った作家自身の姿が映る。彼女を覆うのは、柔らかく着心地の良い衣ではない。中国宣紙や蜘蛛の糸、穀物、刀剣などの金属や泥、長い髪の毛といった、不快で固く冷たく、ごわごわしたものだ。皮膚に危害を与えるかもしれない幾重もの衣を、作家はひとつひとつ、堂々と脱ぎ捨てる。シンプルに考えるならば、衣は社会規範や慣習、家父長制のメタファーであり、それらを脱ぎ捨てる行為は「私」を取り巻く何重ものしがらみからの解放を意味していると言えるだろう。そのいっぽう、本作でUMAは終始首から香炉をぶら下げていて、多量の煙を浴び涙を流している。容赦なく立ち込める煙は、社会の取り決めからいくら逃れようと、人は皮膚の外からつねに刺激を受けて変容する動物であることを突きつけるようだ。

展示風景より、UMA《九重瓣》(2014)
UMAのパフォーマンス《九重瓣》を行った際に撮影された写真の展示

 宙宙、方巍、UMAが、複雑な多面体である人間そのものや、自然界の生の循環を主題とするならば、谷川美音と山口遼太郎は「風景」を通じて自然と人間との距離を見つめる。彼女たちの「風景」とは、自身の感覚に根ざした世界を反映する鏡である。

 谷川は、流動的なドローイングの線を立体化し、漆を施した彫刻を制作することで知られる作家だ。水色や黄色、緑に赤といった爽やかな色使いや、一瞬の動きを結晶化したような造形は非常に軽やかだ。本展では、アイスランドの雄大な滝にインスピレーションを受けた《foss》(2024)をはじめ、散歩中に目にする野花、「霎時施(こさめときどきふる)」秋の空気、甘雨と呼ばれる春先の雨といった、身近な自然と触れるなかで育まれた時間や感覚に基づく作品が並んだ。谷川の作品には、漆という自然素材に宿る時間と、漆を塗っては削り塗っては削りを繰り返して色やかたちを整えていく作家自身の制作の時間が、境界なく共存している。谷川は漆という伝統的な素材と技法の力に敬意を払いながら、過ぎ行く自然の表情や瞬く間に消えてしまう自身の感覚にかたちを与えて、風景として私たちに示してくれる。

谷川美音《foss》(2024)の展示風景
展示風景より、谷川美音の作品群

 山口遼太郎もまた、土という自然の素材と対話をしながら風景をつくる。ただし、彼がつくる風景はとても小さい。滑らかな起伏のある陶器の土台には、1センチに満たないほどの小さく細い人や犬のような生き物がぽつんと佇む。日常の断片的な記憶や夢に着想を得てつくられるというこの小さな陶の世界では、人と動物、そして自然は互いを守りながら親密に寄り添い合っている。山口の作品にとって、この「小ささ」はとても重要だ。小さな人物たちと同じ目の高さで作品を覗くと、陶器の上の小さな世界が、鑑賞者のなかで雄大なパノラマとなって拡がるのだ。鑑賞者の目線の高さや姿勢にアプローチする点で、先述した宙宙のインスタレーションと山口の作品には共通点がある。ただ、宙宙の作品は小さな構成物同士が作用し結びついて、展示会場全体へ拡散する指向性を持つのに対し、山口の作品は見るものが奥へと入り込んでいくような、深度のある箱庭的な風景である。この箱庭は、小さなものを大きく、近いものを遠く感じさせる不思議な庭だ。こうした鑑賞体験が生まれるのは、彼のつくる風景が私たちの身体感覚と記憶に深く働きかけるからにほかならない。

展示風景より、山口遼太郎《遠くを眺める》(2022)
山口遼太郎の作品群

私的な経験と公共性の葛藤

 このように本展は、自然と人間とを見つめる5名の作品が緩やかにつながって、会場全体が一続きの絵巻のように展開する充実した内容だった。だからこそと言うべきか、筆者が引っ掛かったのは、キュレーターの金澤が上海のロックダウンの渦中に発信したSNSの投稿文が会場に置かれていたことである。その言葉たちには、「春望日記」という題が付されていた。

『春望日記』の展示風景より

 これがアーティストの作品であれば、何もSNSというプラットフォームやそこで交わされる言葉、情報を題材・素材にすることは珍しくない。しかし本展で展示された作品や資料のうち、もっとも無加工で生っぽい素材が企画者自身の声だったことに、少なからず戸惑いを覚えたのだ。それは、筆者が公立の美術館で働いてきた学芸員だからという個人的な事情、もしくは私情に起因する戸惑いだと自覚する。あくまで私見だが、学芸員はなんらかの専門や関心を持つ個人であるのと同時に、あるいはそれ以上に、公の組織の人間であることを求められる局面がある。そのためか、少なくとも展覧会という公的な場でありのままの言葉をつぶやいたり、悩み葛藤し喜怒哀楽する姿をさらけ出すことは、ゼロではないにせよあまりない。括弧付き「公共」の感覚をいつのまにかインストールしてしまった筆者にとって、キュレーターである金澤が自身の私的な経験を私的な言葉でひらいたことに驚きと戸惑いを覚えたのは、このような理由による。「これってありなのか?」と思ったのだ。

 「私」の思いや経験を「公共的」に見せて語る方法やテクニックはいくらでもあるなかで、あえて生の言葉を置いたのには理由があろう。ひとつは、展示の出発点をクリアに伝えるためである。もうひとつは、展覧会の射程を私的な領域からより大きな時間軸へと広げるためだ。

 「春望」という本展のタイトルは、中国唐代の詩人・杜甫の詩に由来する。「国破れて山河あり」から始まるこの詩は、戦乱で荒廃した都市・長安の景色と、変わらぬ春の自然とを対比させながら、人間社会の不条理や家族への追慕をうたったものだ。この詩のように、私的な経験を普遍化する態度は5名の作家に共通する。例えば方巍のエネルギーに満ちた絵は、彼とUMAが子供たちを連れて上海から奈良へと移り住んだ経験が描かせたものだし、谷川の彫刻は彼女が日々を過ごすなかで感じた季節の表情や、移り変わる時間をとらえることから出発する。近くて遠い、小さくて大きいというスケールの往還が5名の作品や会場全体から感じられたように、本展が示したのは、小さく近い私的なものと、大きく遠い普遍的なものとのあいだを行き来する人間の想像力だ。

 公共性とは曖昧なものだ。この言葉や制度のなかには、結局は極めて私的な経験や思考が潜んでいる。だからこそ公共性という大義名分でコーティングされた感情や欲望は、ときに無慈悲な暴力になって誰かの言葉を奪う。金澤が綴った『春望日記』は、この公共性の不確かさに抗う決意なのだろう。本展は、私的な経験が持つ普遍的な強さについての展覧会だ。そのためだろうか、私がこの展覧会を振り返り思い出すのは、友人とともに町屋を歩き、階段を昇り降りし、畳に座って目の前に佇む作品をじっと見つめた、極めてパーソナルな時間そのものだ。同時に、やはりこうも思う。私たちは、自らの言葉で話さずにはいられないのだと。 

参考文献:根本美作子「近さと遠さと新型コロナウィルス」村上陽一郎編『コロナ後の世界を生きる』2020年7月、岩波書店。