「髙田賢三 Takada Kenzo」(東京オペラシティ アートギャラリー)開幕レポート。ルックから伝わる服づくりのおもしろさ
ファッションブランド・KENZOの創設者・髙田賢三(1939〜2020)の没後初となる大規模個展「髙田賢三 Takada Kenzo」が東京オペラシティ アートギャラリーで開幕した。会期は9月16日まで。
ファッションブランド・KENZOの創設者・髙田賢三(1939〜2020)。その没後初となる大規模個展「髙田賢三 Takada Kenzo」が、東京・初台の東京オペラシティ アートギャラリーで開幕した。会期は9月16日まで。
本展は髙田が手がけてきたコレクションのルックの数々を一堂にて紹介。徹底して髙田のつくった洋服の数々に焦点を当てることで、その仕事を振り返る展覧会となっている。
兵庫県淡路市に生まれた髙田は、姉の影響で10代前半のころから中原淳一のが創刊した雑誌『それいゆ』や、少女雑誌『ひまわり』などを愛読しており、ファッションへの興味を育んだ。しかし、美大や洋裁学校への進学は叶わず、神戸市外国語大学に進学。ところが、電車の広告で文化服装学院が男子生徒の募集を始めたことを知り、アルバイトで上京資金を貯めて1957年に上京。看板店に住み込んで働きつつ、通信教育やスタイル画教室へと通った。
59年には、念願叶い文化服装学院デザイン科に進学。同級生には松田光弘(ニコル)、コシノジュンコ、金子功(ピンクハウス)らがいた。同校で髙田は第8回「装苑賞」を受賞。会場では美しくラウンドした襟ぐりのジャケットと、ダーツが立体的な造形をつくり出すスカートが特徴的なこの受賞作を見ることができる。
卒業後、既製服メーカーに就職しデザイナーとして働いていた髙田だが、1964年、東京オリンピックに際しての開発に伴うアパートの立ち退き料を元手にパリへと渡った。パリではデザイン画の持ち込みなどを経て仕事を得たが、1970年、満を持して「JUNGLE JAP(シャングル・ジャップ)」を現地でオープン。ブランドがスタートした。
ブランド開始当初から話題になったのが、しぽりやちぢみ、つむぎや浴衣地といった日本の生地を使った服だった。あえて冬に木綿素材を使うなど、生地の新しい可能性を提案し、1971春夏コレクションのショーの後には雑誌『ELLE』の表紙を飾るまでとなる。こうした素材への探求は、その後もブランドのひとつの柱として続いていく。
パリの百貨店の大型エスカレーターを使って発表された1971-72秋冬コレクションでは、パリの伝統的なクチュールに対抗し「アンチクチュール」を謳ったコレクションが評判となる。翌年の72-73秋冬コレクションでは、600人収容の会場に2000人が訪れ、開催が中止になるほどの注目を集めた。
ほかにもニットやツイード、毛皮といった素材、あるいはたっぷりと布地を使った大柄なシルエットの「ビッグ・ルック」などを発表し、髙田にとっての70年代はのちに「やりたいことはすべてこの10年間でやり尽くした」と述べるほどに充実したものとなった。
また、70年代より各地の民族衣装に関心を寄せていた髙田は、それらに共通する特徴として布を無駄にしないための平面的な裁断があることに目をつける。髙田の民族衣装への興味は意匠のみならず、平面裁断と立体裁断の融合というパターンとしても取り入れられた。こうした方向性は、とくに80年代の髙田の仕事を通じて見て取れる。
例えば1982-83秋冬コレクションで発表されたドレスは、この時代の髙田の代表作のひとつといえる。「花」をテーマとした本作は、髙田が20年かけて集めたリボンを約200メートルにわたって使用したといわれ、手仕事の贅が尽くされている。加えて、民族的な意匠とともに、平面と立体の裁断が巧みに組み合せた複雑な構造が存在感を際立たせる。会場では本作を、モデル・山口小夜子がまとったランウェイの写真とともに見ることができる。
ほかにも、会場では80年代の髙田のコレクションが40ルックほど並び、壮観な光景をつくり出す。カラフルなテキスタイルや刺繍に目を奪われがちだが、計算し尽くされたギャザーやダーツのつくりだす立体感や、布を重ねることで生み出されるシルエットの複雑さなど、高度なパターンワークも見逃せない。
また80〜90年代にかけては、舞台衣装などにも取り組んでいる。宝塚歌劇団『パルファン・ド・パリ』の衣装や、2004年のアテネオリンピック開会式の日本代表衣装なども会場では展示されている。とくに当時賛否両論があったオリンピックの衣装は、レインコートを想起させるコートや和柄を思わせるTシャツなど、現代の視点で見れば新鮮な印象を受けることだろう。
過剰なデザイナーのストーリーを排し、実直に高田賢三によるルックを並べることで、その服づくりに迫ろうとする本展。コンセプトだけではない、たしかな技術への理解とパターンワークがそこにあったこと、そして髙田が原点として持ち続けていたであろう、服づくりの根源的な魅力を感じることができるはずだ。