自分だけの美学、自立への道。長嶋りかこ評「Space In-Between:吉川静子とヨゼフ・ミューラー=ブロックマン」
大阪中之島美術館で開催された「Space In-Between:吉川静子とヨゼフ・ミューラー=ブロックマン」(担当学芸員:平井直子)。公私ともにパートナーでありながら、それぞれが独立したアーティスト / デザイナーでもあった二人の関係性やその距離感、そして日本で生まれ、遠く離れたスイスの地でアーティストとしての道を切り拓いていった吉川静子のキャリア形成に焦点を当てながら、グラフィックデザイナーの長嶋りかこが同展の意義について論じる。

自分だけの美学、自立への道
この展示をこんなふうに見るとは思わなかったけれど、ここに見たのは吉川静子の自立への道のりだった。グラフィックデザイナーのヨゼフ・ミューラー=ブロックマンの通訳を担当したのち、彼のもとでデザイナーとして協働し、私生活においてもパートナーとなったその後にアーティストとしての道を歩んだ彼女の、自立とアイデンティティの確立への道のりであった。日本において吉川静子はほとんど知られていない。彼女が20歳も年上の彼からどれほど影響を受けたのだろうかと想像するが、彼女がアーティストとして歩んでいくなかで、影響を受けていったのは彼のほうではないだろうかと思わされる展示でもあった。
ヨゼフ・ミューラー=ブロックマンについてふれておくと、グラフィックデザインにおけるモダニズムの巨匠として認識されている彼が構築し、流布したグリッドシステムは、いつでも誰でも端正なモダニズムを手軽にという、資本主義に寄り添った理想があったからではない。第二次世界大戦を経た彼がデザイナーとして何ができるのかと自責の念に駆られた末、デザインの客観性と中立性というものに倫理を見出していった結果である。グリッドシステムにより生まれるデザインの抽象性は受け手に解釈の余地を生み、その過程でデザインは端的に主張やゴールに誘導するのではなく、あくまで客観的で中立的なものとして機能すると考えた。そこには開かれた議論を歓迎したいという彼の姿勢と、より良い社会づくりに寄与する方法として、戦後のグラフィックデザインの方向性を示したいという切迫した思いがあるように思う。しかし実際は「グリッドにレイアウトが沿うことで美しく整う」という表面的な部分だけが独り歩きしてしまった、という側面は否めない。それは日本においては、高度経済成長のなか消費を促す商業的な広告デザインに大きな比重が置かれてしまったことで、デザイナーの社会に対する理念や社会的責任が薄れていってしまったことによると言える。しかしそれでもなお、彼は影響あるデザイナーであり、彼がデザイナーとして理念や社会的責任を色と形に変えて(時に言葉によって)世に出してきたその思想から、私たちはいまも彼のまなざしを知ることができる。
社会にまなざしを向けていた彼と同じく、吉川もまた、社会を見ていたのだと思う。そしてそれは彼女の場合、母親であった。これは心当たりがある人も多いのではないかと思うけれど、幼い頃から目の前にいる母親の在り方はもっとも身近な社会でもある。吉川にとってそれは、終戦後の不安定な社会のなかで父と別居したものの、生活の糧を得る機会を得られなかったがために苦労した母の姿であり、その不自由さは、男は外で仕事をし女は家事育児をするという、性によって役割をあてがわれることが当たり前の社会によって培われてしまったものであった。そして女性である吉川自身の身体に周囲が期待するものもまた、個人の意思を無視し土足でやってくる家父長的社会そのものだったのだろう。ミューラー=ブロックマンのもとで働く前、彼女は日本人男性と結婚していたが、ともにドイツに滞在していたにもかかわらず、夫だけが帰国を選び彼女が帰国を選ばなかったのは、日本では女性が有無を言わさず家事育児を求められ、経済力を自らの手で生み出すことのできないために夫や男性パートナーに頼らざるをえないからであった。日本人女性が社会の仕組みによって引き受けさせられている役割を吉川は引き受けずに、自立を求め、自分自身を求める道に進んだのだ。
実際、ヨゼフ・ミューラー=ブロックマンの著書『遊びある真剣、真剣な遊び、私の人生 解題:美学としてのグリッドシステム』(佐賀一郎監訳・解題、村瀨庸子訳、ビー・エヌ・エヌ、2018)にも、この展示の協力者でもあり二人の友人でもあるラース・ミュラーによる『shizuko yoshikawa』(ラース・ミュラー出版、2018)にも、吉川が津田塾大学4年生のときにヴァージニア・ウルフの 『自分だけの部屋』(1929)を読んでいたとあった。以下に一部を引用する。
英文学演習の授業で出会ったヴァージニア・ウルフのエッセイ『自分だけの部屋』(1929)は、吉川の人生に大きな転機をもたらした。「女性が小説なり詩なりを書こうとするなら、年に500ポンドの収入とドアに鍵のかかる部屋を持つ必要がある」──独立したひとりの女性として生きていくことの難しさを語ったウルフの主張が、彼女の心をとらえて離さなかった。そこに書かれた女性の姿──自分の部屋を持たず、生きる力を持たない女性の姿に、母が重なったからである。吉川が小学校5年生で母と柳川に疎開したとき、父は大牟田に留まった。それが、母にとっての事実上の父との別れだった。終戦後、父は東京に転勤し、以来帰ってこなかった。戦後の不安定な社会で、生活の糧を得る手段がないことがどれだけ大変なことか、吉川は母を通じて嫌というほど実感していた。ウルフのエッセイは、経済的・精神的自立の重要性を明確に、そして強烈に彼女に意識させた。
(ヨゼフ・ミューラー=ブロックマン『遊びある真剣、真剣な遊び、私の人生 解題:美学としてのグリッドシステム』より一部引用)
ウルフの言葉をもじると、「女性がデザインなり芸術なりをやろうとするなら、自立した収入と、ドアに鍵のかかる自分だけの部屋と、もしパートナーがいるなら家事や育児や介護などケアにおける公平な分担が必要である」となるだろう。しかし吉川の時代のスタンダードでは、ケアは女性が担うものであったから、これは想像でしかないけれど、吉川はケアのタスクを減らすために子供を産まない選択をしたのではないだろうか。今回、作品とともに展示されていた新聞記事には、吉川自身が過去を回想して、前夫を「主人」や「亭主」と呼び、その夫とのあいだに子供を持つ未来や、食事をつくりデパートに行く自分、子供が巣立ってやがて仕事のない自分が夫に依存する姿を想像し、その結果、離婚を決意したことが綴られている。記者は吉川を指すときに「奥さん」と書いているが、彼女がミューラー=ブロックマンとの関係について「私たち夫婦はパートナーです」と強調している一文に、彼女の強い意思を感じる。
