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2025.3.8

自分だけの美学、自立への道。長嶋りかこ評「Space In-Between:吉川静子とヨゼフ・ミューラー=ブロックマン」

大阪中之島美術館で開催された「Space In-Between:吉川静子とヨゼフ・ミューラー=ブロックマン」(担当学芸員:平井直子)。公私ともにパートナーでありながら、それぞれが独立したアーティスト / デザイナーでもあった二人の関係性やその距離感、そして日本で生まれ、遠く離れたスイスの地でアーティストとしての道を切り拓いていった吉川静子のキャリア形成に焦点を当てながら、グラフィックデザイナーの長嶋りかこが同展の意義について論じる。

文=長嶋りかこ(グラフィックデザイナー)

「第1章 Space In-Between:吉川静子」展示風景より、「7 ローマにて」
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自分だけの美学、自立への道

 この展示をこんなふうに見るとは思わなかったけれど、ここに見たのは吉川静子の自立への道のりだった。グラフィックデザイナーのヨゼフ・ミューラー=ブロックマンの通訳を担当したのち、彼のもとでデザイナーとして協働し、私生活においてもパートナーとなったその後にアーティストとしての道を歩んだ彼女の、自立とアイデンティティの確立への道のりであった。日本において吉川静子はほとんど知られていない。彼女が20歳も年上の彼からどれほど影響を受けたのだろうかと想像するが、彼女がアーティストとして歩んでいくなかで、影響を受けていったのは彼のほうではないだろうかと思わされる展示でもあった。

 ヨゼフ・ミューラー=ブロックマンについてふれておくと、グラフィックデザインにおけるモダニズムの巨匠として認識されている彼が構築し、流布したグリッドシステムは、いつでも誰でも端正なモダニズムを手軽にという、資本主義に寄り添った理想があったからではない。第二次世界大戦を経た彼がデザイナーとして何ができるのかと自責の念に駆られた末、デザインの客観性と中立性というものに倫理を見出していった結果である。グリッドシステムにより生まれるデザインの抽象性は受け手に解釈の余地を生み、その過程でデザインは端的に主張やゴールに誘導するのではなく、あくまで客観的で中立的なものとして機能すると考えた。そこには開かれた議論を歓迎したいという彼の姿勢と、より良い社会づくりに寄与する方法として、戦後のグラフィックデザインの方向性を示したいという切迫した思いがあるように思う。しかし実際は「グリッドにレイアウトが沿うことで美しく整う」という表面的な部分だけが独り歩きしてしまった、という側面は否めない。それは日本においては、高度経済成長のなか消費を促す商業的な広告デザインに大きな比重が置かれてしまったことで、デザイナーの社会に対する理念や社会的責任が薄れていってしまったことによると言える。しかしそれでもなお、彼は影響あるデザイナーであり、彼がデザイナーとして理念や社会的責任を色と形に変えて(時に言葉によって)世に出してきたその思想から、私たちはいまも彼のまなざしを知ることができる。

 社会にまなざしを向けていた彼と同じく、吉川もまた、社会を見ていたのだと思う。そしてそれは彼女の場合、母親であった。これは心当たりがある人も多いのではないかと思うけれど、幼い頃から目の前にいる母親の在り方はもっとも身近な社会でもある。吉川にとってそれは、終戦後の不安定な社会のなかで父と別居したものの、生活の糧を得る機会を得られなかったがために苦労した母の姿であり、その不自由さは、男は外で仕事をし女は家事育児をするという、性によって役割をあてがわれることが当たり前の社会によって培われてしまったものであった。そして女性である吉川自身の身体に周囲が期待するものもまた、個人の意思を無視し土足でやってくる家父長的社会そのものだったのだろう。ミューラー=ブロックマンのもとで働く前、彼女は日本人男性と結婚していたが、ともにドイツに滞在していたにもかかわらず、夫だけが帰国を選び彼女が帰国を選ばなかったのは、日本では女性が有無を言わさず家事育児を求められ、経済力を自らの手で生み出すことのできないために夫や男性パートナーに頼らざるをえないからであった。日本人女性が社会の仕組みによって引き受けさせられている役割を吉川は引き受けずに、自立を求め、自分自身を求める道に進んだのだ。

 実際、ヨゼフ・ミューラー=ブロックマンの著書『遊びある真剣、真剣な遊び、私の人生  解題:美学としてのグリッドシステム』(佐賀一郎監訳・解題、村瀨庸子訳、ビー・エヌ・エヌ、2018)にも、この展示の協力者でもあり二人の友人でもあるラース・ミュラーによる『shizuko yoshikawa』(ラース・ミュラー出版、2018)にも、吉川が津田塾大学4年生のときにヴァージニア・ウルフの 『自分だけの部屋』(1929)を読んでいたとあった。以下に一部を引用する。

英文学演習の授業で出会ったヴァージニア・ウルフのエッセイ『自分だけの部屋』(1929)は、吉川の人生に大きな転機をもたらした。「女性が小説なり詩なりを書こうとするなら、年に500ポンドの収入とドアに鍵のかかる部屋を持つ必要がある」──独立したひとりの女性として生きていくことの難しさを語ったウルフの主張が、彼女の心をとらえて離さなかった。そこに書かれた女性の姿──自分の部屋を持たず、生きる力を持たない女性の姿に、母が重なったからである。吉川が小学校5年生で母と柳川に疎開したとき、父は大牟田に留まった。それが、母にとっての事実上の父との別れだった。終戦後、父は東京に転勤し、以来帰ってこなかった。戦後の不安定な社会で、生活の糧を得る手段がないことがどれだけ大変なことか、吉川は母を通じて嫌というほど実感していた。ウルフのエッセイは、経済的・精神的自立の重要性を明確に、そして強烈に彼女に意識させた。

(ヨゼフ・ミューラー=ブロックマン『遊びある真剣、真剣な遊び、私の人生 解題:美学としてのグリッドシステム』より一部引用)

 ウルフの言葉をもじると、「女性がデザインなり芸術なりをやろうとするなら、自立した収入と、ドアに鍵のかかる自分だけの部屋と、もしパートナーがいるなら家事や育児や介護などケアにおける公平な分担が必要である」となるだろう。しかし吉川の時代のスタンダードでは、ケアは女性が担うものであったから、これは想像でしかないけれど、吉川はケアのタスクを減らすために子供を産まない選択をしたのではないだろうか。今回、作品とともに展示されていた新聞記事には、吉川自身が過去を回想して、前夫を「主人」や「亭主」と呼び、その夫とのあいだに子供を持つ未来や、食事をつくりデパートに行く自分、子供が巣立ってやがて仕事のない自分が夫に依存する姿を想像し、その結果、離婚を決意したことが綴られている。記者は吉川を指すときに「奥さん」と書いているが、彼女がミューラー=ブロックマンとの関係について「私たち夫婦はパートナーです」と強調している一文に、彼女の強い意思を感じる。

「第1章 Space In-Between:吉川静子」展示風景より 撮影=編集部

 36歳で吉川はアーティストとしての活動を始めるのだが、それが感情的な表現を一切排した客観的な外観と数学的な構成を特徴とするコンクリート・アートの領域であることは、ミューラー=ブロックマンによる中立性を志したグリッドシステムの理念と通ずるものを感じる。そしてデザイナーからアーティストへ移行した彼女の手つきから見えてくる普遍性に、ミューラー=ブロックマンと公私ともに行われた対話を想像する。二人がお互いに何に惹かれ合ったのかと勝手に推測するならば、それは社会に対するまなざし、理念の根っこだったのではないだろうか。

 彼女は次第にデザインの仕事から離れていくのだが、『shizuko yoshikawa』によれば、それは絵画の領域が男性の言説によって構築され、理論が文化的・実存的手掛かりとなってゆく芸術分野で自立して生き延びるために必要なことだったという。理論的発言を控える女性芸術家たちの歴史は周縁を進まざるをえなくなり、フェミニスト的女性芸術家たちが男性に占領されていない領域へと向かういっぽうで吉川は、例えば私的で身体的な領域での問いかけによって家父長的な構造に揺らぎを起こすような芸術に吉川は向かわず、コンクリート・アートの領域にとどまった。日本の女性の在り方を引き受けなかった彼女にとっては、母国に帰国しなかったという事実自体がすでに大きな表現だったのかもしれない。「この展示は彼女の里帰りである」と言ったラース・ミュラーの言葉に、吉川の体重をずしりと感じる。

「第1章 Space In-Between:吉川静子」展示風景より、「5 宇宙の織りもの」 撮影=編集部
「第1章 Space In-Between:吉川静子」展示風景より、「6 ふたつのエネルギー」《m438 空よりのエネルギー 40》(1993)

 作品に次第に見られるようになってゆく、陰翳礼讃のように繊細な光と影による色調は、自分のアイデンティティを探して必死に掴もうとする吉川の切実さを見るようだ。日本から遠く離れたスイスで、彼女が彼女であるために、デザイナーではなくアーティストを選び進んだ道は、吉川が自分は何者であるのかを問い続け、かたちにし続けた道だったのではなのではないかと想像する。

 そして、感情的な表現を一切排し客観的な外観と数学的な構成を特徴とするコンクリート・アートの領域で、彼女の表現はどんどん主観的でポエティックになっていく。とくにミューラー=ブロックマンが亡くなった後の作品では、突如として情緒的で個人的な心情を表現している。そして驚いたのは最後の部屋に展示された、晩年の作品で、そこにはもはやグリッドさえも感じない、自身の身体と欲求に任せたかのような彼女の自由な躍動があり、すべてから解放されたかのような吉川静子がいた。

「第1章 Space In-Between:吉川静子」展示風景より、「7 ローマにて」
「第1章 Space In-Between:吉川静子」展示風景より、「9 晩年の作品:鼓動」

 展示空間の最後の部屋には小さく区切られた空間があり、そこにミューラー=ブロックマンの展示がある。日本における認知同様に私自身の認知にも偏りがあったためか、こんなふうにパートナーの彼の展示が小さくまとまっていること自体が新鮮だったが、吉川の展示を見終えた後に彼の展示を見たことで、この空間の比重がとても自然なもののように思えた。そこには彼が吉川と出会うずっと前の、青年期の絵画的な仕事や、グリッドのない自由で躍動感のあるレイアウトがあり、吉川と出会って彼女がアーティスト活動をするようになった時期につくられた見慣れぬ彫刻作品があった。その後、彼がグリッドシステムを構築したことは周知の通りだが、彼の晩年の仕事が再び自由で有機的なレイアウトに戻っていたことは、人は老いると再び心がプリミティブになっていくという至極素朴で愛おしい側面でありながらも、吉川が彼女自身のアイデンティティを必死に掴もうとし、社会から求められるものを引き受けず、「自分だけの部屋」かのような「自分だけの美学」を構築しようとする姿に、影響を受け続けた結果なのではないかと感じずにはいられなかった。私たち夫婦はパートナーです、という吉川の言葉が、この展示でやっと公平な質量とバランスで伝わってくるような気がした。

「第2章 Space In-Between:ヨゼフ・ミューラー=ブロックマン」展示風景より 撮影=編集部