書評:「パクりはいけない」とみんな言うけれど。成相肇『芸術のわるさ コピー、パロディ、キッチュ、悪』
雑誌『美術手帖』の「BOOK」コーナーでは、新着のアート本を紹介。2023年10月号では、成相肇『芸術のわるさ コピー、パロディ、キッチュ、悪』を取り上げる。トレースやパクりが断罪される昨今、コピーやパロディを逆手に取った過去の美術的表現をたどりながらその果たしてきた役割を紐解く本書を、美術批評・中島水緒が書評する。
「パクりはいけない」とみんな言うけれど
やれ絵師が無断でトレースしただの、偉大な芸術作品のオリジナリティが侵害されただの、パクりにうるさく独善的な道徳観が横行するいまの世の中で、芸術の「わるさ」を表看板に掲げる本書はかなり大胆不敵に映る。副題にある通り本書では、コピー(複製)であることを逆手に取った過去の美術作品、既存の制度や様式を挑発するパロディ、「正統」であることから逸脱するキッチュといったものの意義と役割が積極的に論じられる。しかしこれは、偏狭な正義とSNS的な炎上が「表現の自由」を萎縮させる現状に対するたんなる反動ではない。「石子順造的世界」(2011)、「ディスカバー、ディスカバー・ジャパン」(2014)、「パロディ、二重の声」(2017)。学芸員として異端の展覧会の数々を企画してきた著者にとって、法や慣習に抵触し大衆文化のリアルを正視する(非)美術作品を観測し、その「いかがわしさ」を点検することは、何も今日突発的に出現した問題意識ではなく、継続的に取り組まれてきたテーマであったはずだ。
冒頭で紹介されるのは柳田國男の論じる「悪の技術」である。著者はここで「悪であること」それ自体を称揚するのではなく、柳田が「悪の巧拙」、すなわち技術としての機能に着目していたことを重視する。「悪」の様態も千差万別、道を極めるのもラクではない。だからこそ、1970年代にマッド・アマノのフォト・モンタージュ作品が起こしたパロディ裁判を法廷の記録とともに細かくたどり、日本国有鉄道による戦後の一大キャンペーン「ディスカバー・ジャパン」の功罪を多面的に考察するような、事例ごとの実情に沿った精査が必要となってくるのだ。パロディと風刺はどう違うのか、大衆を操作する企業広告やメディアの活動はどのようなメカニズムを持っているのか。先に挙げたマッド・アマノのパロディ裁判考察は、本書の最大の読みどころであり、「表現が受容されるうえで意図は別問題」(152頁)とする著者の主張は、表現物の責任主体を「誰」にばかり求める論点を、より広いフレームワークへ連れ出してくれる。
さらに注目したいのが著者の卓越した文章力だ。言葉というメディウムを用いて視覚芸術に斬り込む職能の美術批評家たちが硬直した業界内言語でしか語れないなか、成相は声帯模写ならぬ文体模写やダダ的精神も取り込みながら「ことば」をドライブさせている。柳田の掲げた「悪の技術」は、まさに本書の紙面を覆う文字の一粒一粒に血肉化されているのだ。
(『美術手帖』2023年10月号、「BOOK」より)