2025.2.1

「生誕190年記念 豊原国周」(太田記念美術館)開幕レポート。明治以降も引き継がれた歌川派の本流を見る

東京・原宿の太田記念美術館で「生誕190年記念 豊原国周」が開幕した。会期は前期が2月1日~2月24日、後期は3月1日~3月26日。

文・撮影=安原真広(ウェブ版「美術手帖」副編集長)

展示風景より、右が豊原国周《五代目大谷友右衛門の久利伽羅でん次》(1866、慶応2年)太田記念美術館蔵
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 東京・原宿の太田記念美術館で「生誕190年記念 豊原国周」が開幕した。会期は前期が2月24日まで、後期は3月1日~3月26日。担当は同館上席学芸員の渡邉晃。

 2025年は、幕末から明治にかけての浮世絵師である豊原国周(とよはら・くにちか、1835〜1900)の生誕190年の記念の年となる。国周は迫力のある役者絵で役者絵の第一人者として君臨し、また繊細な雰囲気を湛える美人画なども好評を得て、月岡芳年や小林清親らと並ぶ人気絵師として活躍した。

展示風景より、右が豊原国周《当世六玉顔 高野》(1869、明治2年)

 本展は、従来の展覧会等では芳年や清親などと比べて紹介される機会の少なかった国周の画業を初期から晩年までを俯瞰。約210点の作品で紹介する過去最大級の回顧展となっている。

 担当の渡邉は本展の意義について次のように語った。「役者絵で知られる国周だが、美人画から肉筆画まで、幅広い画業がある。これら全貌を紹介するものが少なかったなか、本展は過去最大規模の展覧会となっている」と語る。

展示風景より、右が豊原国周《五代目大谷友右衛門の久利伽羅でん次》(1866、慶応2年)太田記念美術館蔵

 展覧会冒頭では、豊原国周がそう名乗る前は歌川国周であったことを再確認し、江戸後期の浮世絵を牽引した歌川派としての国周の立ち位置を確認する。ここでは、1869年(明治2年)に描かれた役者の大首絵(人物の顔を大きく描いた浮世絵)が並ぶ。

展示風景より、左が豊原国周《きられ与三郎 薪水》(1869、明治2年)太田記念美術館

 幕末期にかけての歌川派では、広重の風景画、国芳のアイデアに富んだユニークな画で広く知られる。しかし、本来の歌川派の本流といえるのは、歌川国貞(三代目歌川豊国)を筆頭とする、役者絵と美人画であった。国定の死後、これを正統的に引き継ごうとしたとされるのが国周だ。迫力ある大首絵の数々は、高い技術ですでに評価が高まっていた国周が、国貞の得意とする役者絵を踏襲し、その後継を宣言をしたかのような作品群といえる。

 第1章「初期の画集」は、国周の最初期の作品を中心に紹介。人体表現や風景描写など、初期のころから国周が高い技量を持っていたことを認めることができる。得意とする美人画の数々とともに、武者絵や風景画、風刺絵など、幅広いジャンルの浮世絵を紹介。なかには国貞のみならず、国芳からの影響を感じさせるものも多い。これについて、渡邉は「想像の範疇ではあるが、国周が国芳を私淑していた可能性はある」と語る。

展示風景より、左が豊原国周《春の景花遊図》(1854、安政元年)個人蔵

 第2章「国周の飛躍」は、国貞の生前から高い評価を得ていた国周が、その死後に頭角を現していく過程をたどる。歌舞伎役者など著名人が死んだ際に描かれる死絵。歌川国貞が世を去った際にもこの死絵が描かれており、その筆を任されたひとりが国周だ。《歌川国貞(三代豊国)死絵》(1864、元治元年)は、弟子の代表としての国周の矜持を象徴しているといえよう。

展示風景より、左が豊原国周《歌川国貞(三代豊国)死絵》(1864、元治元年)太田記念美術館蔵

 国貞の死後、歌川派の本流として数多くの作品を描くようになった国周は、役者に想像上の役割を当てて描く見立絵や、背中の彫物を鮮やかな色彩で表現した役者絵など、その実力を遺憾なく発揮していく。ここでは、当代の悪女5人を役者絵風に描いた五枚続《東都不二勇気の肌》(1864、元治元年)や、デザイン性を強く感じる斬新な背景を用意した《江戸気雄意 当盛すがた》(1866、慶応2年)など、国周が役者絵を意欲的に拡張しようとした足跡をたどりたい。

展示風景より、豊原国周《東都不二勇気の肌》(1864、元治元年)太田記念美術館蔵
展示風景より、右が豊原国周《江戸気雄意 当盛すがた》(1866、慶応2年)太田記念美術館

 第3章「明治時代の国周」は、明治維新になり新たな風物が登場したなかで、国周がそれらをテーマにした作品が並ぶ。例えば、写真風に描きこんだ役者絵《写真楽屋鏡 初代河原崎権十郎》(1868、明治元年)などはその典型だろう。

展示風景より、右が豊原国周《写真楽屋鏡 初代河原崎権十郎》(1868、明治元年)太田記念美術館蔵

 また、この頃から、国周は豊原国周を名乗り始める。国周よりも力量的に劣る二代歌川国貞が歌川豊国を襲名したことを良しとしなかったとも考えられ、次第に国周は歌川派から独立していく。しかし、渡邉は「自分こそが、歌川派の正統であるという矜持がそこにはあったのでは」と語る。

展示風景より、左が豊原国周《小今三枡五人梯》(1866、慶応2年)太田記念美術館蔵

 国周は、明治の新しい文物を絵の中に取り入れようとも、必ず役者とともに描くなど、役者絵を専門にするという方針をより明確にしていった。これが国周の画風の大きな特徴といえるだろう。

 第4章「画題の広がり」では、明治10年代後半から晩年までの、明治の激動のなかで国周が描いた作品を紹介。例えば、当時世の中を震撼させた出来事といえる西南戦争であるが、国周はこうした事件も、実録的なリアリズムを取り入れた武者絵ではなく、徹底して役者絵として表現することにこだわった。

展示風景より、左が豊原国周《西南雲晴朝東風》(1878、明治11年)個人蔵

 また、本章では国周の絵の力に対峙できる肉筆画に注目したい。なかでも《墨堤観花図》(1892、明治25年)は、帝国博物館総長の九鬼隆一の依頼で描かれたもの。花見を楽しむ人々の仕草や装いが仔細に描かれた、華やかな様相を楽しんでほしい。

展示風景より、豊原国周《墨堤観花図》(1892、明治25年)東京国立博物館蔵

 以降も、国周の役者絵は古くからの歌川派を引き継ぎ続けた。いっぽうで、美人画は柔軟に時代の流行を取り入れ、歳の近い弟子の楊洲周延とも協調する姿勢を見せていた。このように、多彩な国周の姿勢を見ることができるのも本展の特徴となっている。

展示風景より、右が豊原国周《遊女屋べつさうのてい》(1893、明治26年頃)千葉市美術館蔵

 近年、注目が集まる明治以降の浮世絵の豊かさ。歌川派を未来につなげようとした豊原国周もまた、時代をつくった一人であったことを、改めて知ることができる展覧会だ。