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2024.10.23

「ソーシャリー・エンゲージド・アート」の余白。山本浩貴評「DISPLACEMENT|笹原晃平」展

今年7月、仙台のGallery TURNAROUNDで大阪を拠点に活動するアーティスト・笹原晃平の個展が開催。彼のこれまでの制作とともに、地域や社会と深く関わる実践的なアートプロジェクト「社会実践ポストポン」を中心に展開された。笹原の芸術実践における「余白」に着目し、それがどのようにしてソーシャリー・エンゲージド・アートの可能性を広げるかについて、文化研究者の山本浩貴が論じる。

文=山本浩貴

「DISPLACEMENT|笹原晃平」展の展示風景より 撮影=小岩勉
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「ソーシャリー・エンゲージド・アート」の余白

 大阪を拠点に活動するアーティストの笹原晃平とは、大阪でのイベントを通して知り合った。2024年7月に仙台の現代美術ギャラリー・Gallery TURNAROUNDで開催された笹原の個展に際し、筆者との対談形式でのトークが実施された。このトークはすでに終了しているが、主にふたつの理由から、本展のレビューを残しておきたいと考えた。

Gallery TURNAROUNDの外観 撮影=小岩勉

 ひとつ目の理由について。管見の限り、日本では東京と京都を筆頭とする大都市での現代美術の展示についてのレビューの数に比べ、地方都市での現代美術の展示についてのレビューの数は極端に少ない。あるいは地方都市であっても、公立美術館での注目度の高い大型企画展と比較すると、ギャラリーやオルタナティブ・スペースでの展示への注目度は格段に下がるように思われる。いかに魅力的で、批評に値する展示であったとしても。日本美術界の言説空間における、こうした構造的偏りを少しでも変えていきたい。

 昨年、筆者は札幌の現代美術ギャラリー・CAI03で開催された鈴木涼子の個展についてレビューを執筆し、ウェブ版「美術手帖」に寄稿した。そのことも、こうした構造的変化を促すアクション──どんなに小さな一歩だとしても──であった。このように、筆者は仕事などで地方都市を訪れた際には、なるべく地元のギャラリーやオルタナティブ・スペースに足を運ぶようにしている。そのためには、その場所をよく知るインフォーマントが各地にいることが重要となる。そして、批評に資する強度のある展示に出会ったときは、できるだけレビューを執筆(し、なんらかの媒体に投稿)するようにしている。

ソーシャリー・エンゲージド・アートの可能性の縮減

 仙台で現代美術の重要な拠点となっているGallery TURNAROUNDでの笹原の個展「DISPLACEMENT」も、そうした批評的価値を有する展示であった。それに加え、この展示のレビューを執筆したいと考えた背景には、筆者の最近の関心と活動とも関わる、より具体的な動機が存在している。

「DISPLACEMENT|笹原晃平」展の展示風景より 撮影=小岩勉

 前置きが少し長くなるが、その「最近の関心と活動」について簡潔に述べたい。去る2024年9月、韓国・光州で光州ビエンナーレが開幕した。12月1日まで開催している。その著書『関係性の美学』(1998、邦訳・水声社、2023)で知られるヨーロッパのスター・キュレーター、ニコラ・ブリオーをアーティスティック・ディレクターに迎え、西洋式のナショナル・パビリオン・システムを導入した今回の光州ビエンナーレ。そこには当然、脱欧米中心主義の流れを汲んだ批判もあがっている。 

 筆者自身、ユーロ・セントリズムから脱却する必要性を主張してきた。しかし、今回の光州ビエンナーレでは日本のナショナル・パビリオンのキュレーターを務めている。光州ビエンナーレでのナショナル・パビリオン・システムの復権と、そこで日本パビリオンのキュレーションを担う筆者の考えについてはウェブ版「美術手帖」のインタビューで語っている。

 日本パビリオンでは内海昭子と山内光枝の2名を選出し、ふたつの会場を使って、それぞれのアーティストに個展形式で新作を披露してもらった。昨年末以降、研究者の方々の力も借りながら、作家たちと一緒に光州についてのリサーチを重ねてきた。なお光州の歴史、あるいはその日本との関わりについて知るための文献としては、今回のビエンナーレでも協力を仰いだ、真鍋祐子『光州事件で読む現代韓国』(平凡社、2000)や古川美佳『韓国の民衆美術──抵抗の美学と思想』(岩波書店、2018)を推薦したい。いっぽうで作家とも意見を交わし、光州の歴史や日本との関連を念頭に置いたうえで、わかりやすすぎるナラティブ(メッセージ性)や過度にジャーナリスティックなアプローチを含むものとは異なる作品をめざした。

 そのような意識の背後には、日本でもよく知られる美術史家のクレア・ビショップが「情報オーバーロード」(2023)のなかで展開した、近年の「リサーチ・ベースド・アート」に対する批判とも共鳴する何かがある。「情報オーバーロード」のビショップは主に言説という形式の情報を素材とする、しばしば大量のテキストと並置されるインスタレーション・アートを批判的に論じている。だが、彼女はそうした形式自体を批判しているというよりは、そのようなアートにおいては、言説を通したリサーチがアーティストの内部で身体化、血肉化されていないことに対するフラストレーションから書かれている。

リサーチ・ベースのインスタレーションにおけるもっとも豊かな可能性は、既存の情報がたんに切り貼りされ、集積され、展示ケースに投下されるのではなく、それらが自らの方法によって世界を感受する独特な思考者のもとで新陳代謝されるときに現れる(*1)。 

 「ソーシャリー・エンゲージド・アート」の名で理論化されてきた、現代アートの社会的・政治的実践が日本で注目されるようになってきたのは意義のある変化だ。だが、そうした実践が言説を通して「学んだ」情報をテキストの並置によって「示す」だけのものに還元されたり、その価値が示された情報の分量で決定されてしまうことがあれば、ビショップも示唆するように、そのことはソーシャリー・エンゲージド・アート自体の可能性の縮減につながるだろう。

 そのように言うことで、当然ながら、筆者はリサーチ・ベースド・アートを十把一絡げにして糾弾するつもりはない。また、芸術至上主義的な視点から、芸術の領域での社会的・政治的なアクションを格下げする意図もない。筆者自身も様々な場で指摘してきたように、芸術と政治という二領域を完全に切り離すことなどできない。そうではなく、その可能性を拡張するために、ここではソーシャリー・エンゲージド・アートを広い意味でとらえることの重要性を指摘したいのだ。

笹原晃平の芸術実践における「余白」

 前段が長くなったが、ようやく笹原の展示に目を向けたい。「DISPLACEMENT」展は、彼がせんだいメディアテークを拠点に展開する活動の欠くべからざる一環として機能している。その活動は「社会実践ポストポン」と命名されている。「社会実践ポストポン」は貨幣を介さないオルタナティブな交換経済の実践として笹原により構想され、(作家本人の言い回しを借りれば)「永続的な貸し借り」の具現を目標にしたプロジェクトである(*2)。その具体的な方策として、笹原は主に子供たちが自分の意思でいつでも食事をとることができるような環境を整備し、それに伴う飲食店を含む地域コミュニティの活性化という相乗効果を可能にする仕組みの構築を目指す。

 このプロジェクトでは(多くの思想家をして「オルタナティブはない」と断言せしめた)資本主義経済の「余白」が探索されている。この貨幣によって媒介されない循環経済の原動力としての資金の一部は、間接的には、子供たちが使用した飲食のためのチケットの半券と飲食店が先送りして精算したチケットの半券をつなぎ合わせたものを額装した作品を売ることで得られる資金ということになる(*3)。その意味では、完全に現行の資本主義経済の外部に存しているわけではないが、少なくともその隙間にある何かへと光が投じられている。そして、その「余白」を埋めているものが原初的な意味での「信用」であるように見えることは、たいへん示唆的である(*4)。

《Coke and Beef Tongue(Postpone Deliverable Piece)》(2024)の展示風景 撮影=Gallery TURNAROUND

 先ほど「つなぎあわせて」と記述したが、当然ながら、いったん切り離された紙片を再び完璧に接合することはできない。それどころか、両者はかなり大雑把に並置されている。その中間には、縦に伸びる空隙がはっきりと刻まれている。そして、笹原の芸術実践の「肝」は──比喩的な意味でも、実際的な意味でも──この空隙にこそ存在しているように思われるのだ。

 その明示的な社会・政治的有用性ゆえ、「社会実践ポストポン」は「美術」としての批評を受けることが少ないのではないかと予想される。笹原にとって、しかしながら、その作品に現出する認知されにくい空白、埋めがたい「あわい」は視覚的・美的に重要なものである。隙間こそ、彼が都市空間や経済制度のなかに発見しようとする何かであり、それを同時に視覚的・美的に表象することにも、笹原はオブセッシブとも言えるこだわりをもっているように思われる。

  そうした点を踏まえて初めて、Gallery TURNAROUNDの展示空間では「異質」に見えるほかの2作品の意味が明白に浮かび上がる。その2作品とは、最初は2007年に制作された笹原のデビュー作とも言える《Home and Away》、そして2021年以降に彼が様々な場所で発表している《対縁》(2021年は《未題》というタイトルで発表)である。

展示風景より、中央は《対縁》(2021/2024再制作) 撮影=小岩勉

 《対縁》では、展覧会場周辺をぐるりと一回りした長いロープの両端が「つながらない」状態で額縁の中央に収まっている。鑑賞者の注目が向かいがちなのはギャラリーを取り囲むロープのギミックだが、実際に同作の核となっているのは、接触しそうでいて決してくっつくことのないロープの両端の間にある空隙であろう。

《Home and Away》(2007/2024再制作)の展示風景 撮影=小岩勉

 《Home and Away》は、高度にコンセプチュアルな作品だ。ギャラリーのカフェ部分を展示空間に「移転」し、再現する。多くの人は「作品」であることも気づかないであろう《Home and Away》だが、その繊細な場所(place)の芸術的交換においても余白が作品になり、反対に作品のほうが余白になるという転倒が生じて(take place)いる。そして、その転倒の瞬間は何度も際限なく反復され(鑑賞者は、どちらかの空間が作品で、もういっぽうの空間が「余白」であると認識した瞬間、次はその余白こそが「作品」であることに気づくからだ)、その繰り返しが作品の「肝」をなすのだ。

 このように、笹原は一貫して無数の「余白」──経済活動の余白、芸術活動の余白、作品における空間の余白──を探求し、その隙間に飽くことなく光を当て続けてきた作家だ。目に見える(可視的な)余白も、目に見えにくい(不可視的な)余白も。触れることのできる余白も、触れることのできない観念的な余白も。そこにこそ、彼の芸術実践がたんなる社会的プロジェクトに留まらない、芸術としての独自性が横たわる。 

 概念的な余白と現実のおける余白が両義的に結びつくとき、笹原の芸術実践はソーシャリー・エンゲージド・アートとしての本当の力を発揮する。笹原は、そのさらなるポテンシャルを引き出すべく、「ソーシャリー・エンゲージド・アート」の余白を見出そうと奮闘している。そう筆者には感じられた。笹原の活動が指し示す先に、ソーシャリー・エンゲージド・アートのまだ見ぬ姿(のひとつ)が照らし出されている。

*1──クレア・ビショップ「情報オーバーロード」青木識至+原田遠訳『Jodo Journal 5』浄土複合、2024、72ページ。アンダーバーは原文では傍点。
*2──ここでは詳述しないが、その革新的な仕組みについては笹原のオフィシャル・ウェブサイトなどで詳しく説明されている(とくに同ページの埋め込み動画を参照のこと)。
https://arahasas.com/postpone/(2024年10月1日閲覧)
*3──このチケットは「せんだい・アート・ノード・プロジェクト」(せんだいメディアテークが2016年から継続している地域密着型のプロジェクト。略称「アートノード」)が仙台市環境局からの依頼で始めた「ワケあり雑がみ部」(アーティストの藤浩志が監修を務めている)でつくられた「包装紙」を再・再利用したもの。「雑がみ部」では、毎年、家庭ごみに混入するリサイクル資源としての「雑がみ(紙袋、紙箱、包装紙など)」をメディアテーク内に「雑がみ収集所」を一時的に設置して収集し、家庭から持ち込まれた雑がみを用いて参加者が自由に工作している。そのため、せんだいメディアテークのアーティスティック・ディレクターを務める甲斐賢治の言葉を借りれば、このチケットには「同じものが1枚もない」ことになる。
*4──このチケットは信用取引における「貸し借りの証明書」のようなものである、と笹原は説明する。そのアイデアのモデルとなっているのは、歴史的に長らく用いられていたとされる「タリー・スティック」である。これは貸し借りにまつわる「記憶補助装置」として機能していたもので、本来1本だった木の枝を2本に割って金額や日付などを書き込み、借主と貸主がそれぞれに保持していたとされている。