虚構によって現実を括弧に入れる。岩田智哉評「Tao Hui: In the Land Beyond Living」
映像インスタレーションを中心に社会の諸相を、現実と虚構をないまぜにするように描写することで知られる中国出身のアーティスト・陶輝(タオ・フイ)。その個展「In the Land Beyond Living」が、2月2日まで香港の大館コンテンポラリーで開催された。残酷な現実にいかに抗うことができるのか、The 5th Floor ディレクターの岩田智哉がレビューする。
文=岩田智哉
「Tao Hui: In the Land Beyond Living」展の展示風景より、《Chilling Terror Sweeps the North》(2024) All Images Courtesy of Tai Kwun
展示風景より、《Cuddle》(2024) Commissioned by Tai Kwun Contemporary
そこに対置されるのが、映像インスタレーション作品《Chilling Terror Sweeps the North》(2024)である。同作では、中国北部の乾燥した山岳地帯出身の女性と、愛を求める中国南部出身の男性をめぐる物語が描かれる。彼女との愛のために生きることを願う男性は、北部の過酷な気候のなかで生きる彼女を都会的な南部へと連れ出そうと説得を試みる。しかし、自らが生まれ育った厳しい環境のもとで生きることを望む彼女は、最後まで彼を真に受け入れることができない。彼女が劇中で語る「When you live in cruelty, you are forced to use cruelty as a tool(残酷さの中に生きるとき、残酷さを道具として使わざるをえない)」というセリフは、自らが置かれた環境を客体化することで道具化し、それをもって残酷さに対峙するというひとつの可能性を提示する。しかし、彼女は自身に対しての葛藤や現実の残酷さに苦しんだ末に自らの頭部に当てた銃を引く。
展示風景より、左は《Chilling Terror Sweeps the North》(2024)。右下の彫刻は《Cuddle》(2024)
この大きなインスタレーションの横では、ひっそりと《From Sichuan to Shenzhen》(2017)が展示される。出稼ぎ労働者が住まうアパートの古い洗面台を模した台座に鏡のように設置されたスクリーンには、自らも四川から深圳に出て働く女性が電話で語る日々の苦悩が、スマートフォンで音楽を再生したときの歌詞のスクロールのように流れる。洗面器の中に置かれたヘッドフォンを耳に当てると、セリフと同期した彼女の声が流れ、過去に別れた男性や田舎の保守的な両親の結婚観、仕事関係の男性に性的な目で見られることに対するやるせなさが、現実に葛藤するリアルな感情を伴った声で聞こえる。
展示風景より、《From Sichuan to Shenzhen》(2017)
ここでは、《Hardworking》と《From Sichuan to Shenzhen》という社会の対極を扱ったようなふたつの作品が同じ空間に配置される。前者で示される煌びやかな世界とその裏に隠れた現実と対比されるように、後者では日々の現実から逃れてそうした虚像を消費する大衆としての都市生活者の苦悩が描かれる。その苦悩の語りが鏡の位置に置かれることで、虚構の現実として作品に接していた鑑賞者に、不意に自身の姿をその鏡像として定位するよう迫る。ここに来て、鑑賞者は再び現実へと引き戻される。
陶はここまで繰り返し述べてきたように、現実と虚構を重層的に行き来する。陶自身がテレビや小説といった虚構に救いを求めてきたひとりであり、そうした彼が創出する舞台装置に巻き込まれ、鑑賞者それぞれの生きる現実が客体化されていく。残酷な現実は死をもってしか終わらせることはできない。だからこそ、それ自体を虚構によって客体化し、現実を括弧にいれることで抵抗を試みる。「生の彼方の地(In the Land Beyond Living)」に続くのは、現実としての虚構か、あるいは残酷な現実か。
*1──Yang Zi, “Outside of Form, the Story Begins: The Work of Tao Hui,” New Directions: Tao Hui (Beijing: UCCA Center for Contemporary Art, 2015), 18.