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2025.3.14

虚構によって現実を括弧に入れる。岩田智哉評「Tao Hui: In the Land Beyond Living」

映像インスタレーションを中心に社会の諸相を、現実と虚構をないまぜにするように描写することで知られる中国出身のアーティスト・陶輝(タオ・フイ)。その個展「In the Land Beyond Living」が、2月2日まで香港の大館コンテンポラリーで開催された。残酷な現実にいかに抗うことができるのか、The 5th Floor ディレクターの岩田智哉がレビューする。

文=岩田智哉

「Tao Hui: In the Land Beyond Living」展の展示風景より、《Chilling Terror Sweeps the North》(2024) All Images Courtesy of Tai Kwun
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虚構によって現実を括弧に入れる

 本稿を執筆している2025年2月上旬現在、一度は停戦に至ったはずのガザではいまだにイスラエルが殺戮を続けている。その果てにはトランプ米大統領が、アメリカによるガザの所有権を主張し始めている。いっぽう、その裏ではロシアとウクライナが侵攻開始から3年経ったいまも争いを続けている。

 またそうした国際情勢の影響を受けた日々の変化。気付かぬうちに変えられてしまう社会のルール、届かない弱者の声。そして、個人個人が抱える日々の苦しみ。

 現実はかくも残酷である。いつか劇的な変化が訪れるのではないかと藁にもすがりたくなるが、そんな淡い希望は泡沫のように消えてゆく。

 香港の大館コンテンポラリー(以下、大館)で開催された陶輝(タオ・フイ)の個展「In the Land Beyond Living」(2024年9月26日〜2025年2月2日)は、残酷な現実をどう生きるか、どう抗うか、虚構を手引きに現実を客体化することでそれと向き合うことを試みる。 

 1987年生まれの陶は中国の重慶市雲陽県省出身で、映像インスタレーションを中心に社会の諸相を現実と虚構をないまぜにするように描写することで知られるアーティストである。本展で彼は、大館の空間を、歪んだ現実を逆照射的に描写する舞台装置へと変容させる。本稿では導線に合わせて展示空間をたどることで、現実と虚構が螺旋状に入り乱れる舞台装置という作家の手法から展示全体の分析を試みる。 

展示室1

 まず鑑賞者を迎え入れるのは、色とりどりのガラス製の鶏の足でできたカーテン《Money Grab Hand》(2024)である。世界各地には鳥を用いた占いである鳥占術が存在するが、その形状が「お金を掴む」動きに見えることから、中国各地で幸運の象徴とされているという。鳥の足が天井から無数に吊るされた本作は、その先に広がる展示空間を魔術的な舞台装置へと転換する結界として存在すると同時に、カラフルでポップなそれらは生死のサイクルを演劇的な機能へと還元し、不気味かつシニカルに現実の足場を揺るがせる。

展示風景より、《Money Grab Hand》(2024)
Commissioned by Tai Kwun Contemporary

 カーテンの先に進むと、空間を縁取るように砂漠が現れる。干からびた草が少しだけ生える不毛な砂漠に置かれるのは、石化した蛇が陶製の便器に巻きついていまにも割れそうになっている彫刻作品《Cuddle》(2024)である。そこでは、巻きつく圧力があと少しでも強まれば割れてしまうであろう緊張感と、石と陶器という素材であるがゆえにとどめられた一瞬の永遠性が同居している。様々な伝説や神話に登場する蛇と、私たちの世俗的な生活と結びついたトイレという2つのモチーフ。現実と虚構、破壊と創造。そのどちらかに属するのではなく、両者が生み出す絶妙な緊張感のなかに鑑賞者が置かれる。また、砂漠はデジタルを思わせるようにカクカクとしており、仮想的な空間へと転換されている。

展示風景より、《Cuddle》(2024)
Commissioned by Tai Kwun Contemporary

 そこに対置されるのが、映像インスタレーション作品《Chilling Terror Sweeps the North》(2024)である。同作では、中国北部の乾燥した山岳地帯出身の女性と、愛を求める中国南部出身の男性をめぐる物語が描かれる。彼女との愛のために生きることを願う男性は、北部の過酷な気候のなかで生きる彼女を都会的な南部へと連れ出そうと説得を試みる。しかし、自らが生まれ育った厳しい環境のもとで生きることを望む彼女は、最後まで彼を真に受け入れることができない。彼女が劇中で語る「When you live in cruelty, you are forced to use cruelty as a tool(残酷さの中に生きるとき、残酷さを道具として使わざるをえない)」というセリフは、自らが置かれた環境を客体化することで道具化し、それをもって残酷さに対峙するというひとつの可能性を提示する。しかし、彼女は自身に対しての葛藤や現実の残酷さに苦しんだ末に自らの頭部に当てた銃を引く。 

展示風景より、左は《Chilling Terror Sweeps the North》(2024)。右下の彫刻は《Cuddle》(2024)

 悲しい物語ではあるが、映像自体からインスタレーション全体へと意識を向けると、それがまた虚構であることに安堵する。傍らで胡琴を奏でるホログラムの奏者が、スクリーンの中の物語の戯画性を強調するかのように儚くその姿を消していく。伝統的な中国の寺院の外観を模した構造物は、金属の骨組みやそれを囲うプラスチックのパネル、ビニールでできた大理石調の床など、仮構性が強調される。悠久の時間を想起させる寺院建築と素材が持つ一時性。ここでも両極の二択が生み出す緊張感が、舞台装置としての虚構性を際立たせる。これらの外縁を囲むデジタルな質感を伴った砂漠のセットは、映像内外の世界をリンクさせる。それにより鑑賞者は、自身が置かれた空間が現実と虚構がねじれた場であることを意識する。

展示風景より、《Chilling Terror Sweeps the North》(2024)
Commissioned by Tai Kwun Contemporary

 このようなドラマ・映画的な虚構性には、陶の制作を裏付ける幼少期の体験がある。山岳部の田舎村で生まれ育った彼にとって、テレビで放映されるソープオペラは、単調な毎日という冷たい現実に唯一希望の光を差し込むものであった(*1)。ここで示される物語性に依拠した虚構性は、次の展示室でより個々人の日々の生活に根差したそれへと位相を移す。

展示室2

 《Hardworking》(2023-24)では、かたちの歪んだスマホを模した大きなモニターを、溶けかけの人物がなんとか踏ん張りながら後方から支えている。そしてモニターに流れる映像では、ライブ配信をするインフルエンサー風の女性がどこか物哀しげにTikTokやインフルエンサー文化をめぐる眼差しのポリティクス、画面を通したリアリティや満たされることのないつながりについて、自嘲気味に風刺的な語りを展開する。

展示風景より、《Hardworking》(2023-24)
展示風景より、《Hardworking》(2023-24)

 この大きなインスタレーションの横では、ひっそりと《From Sichuan to Shenzhen》(2017)が展示される。出稼ぎ労働者が住まうアパートの古い洗面台を模した台座に鏡のように設置されたスクリーンには、自らも四川から深圳に出て働く女性が電話で語る日々の苦悩が、スマートフォンで音楽を再生したときの歌詞のスクロールのように流れる。洗面器の中に置かれたヘッドフォンを耳に当てると、セリフと同期した彼女の声が流れ、過去に別れた男性や田舎の保守的な両親の結婚観、仕事関係の男性に性的な目で見られることに対するやるせなさが、現実に葛藤するリアルな感情を伴った声で聞こえる。

展示風景より、《From Sichuan to Shenzhen》(2017)

 ここでは、《Hardworking》と《From Sichuan to Shenzhen》という社会の対極を扱ったようなふたつの作品が同じ空間に配置される。前者で示される煌びやかな世界とその裏に隠れた現実と対比されるように、後者では日々の現実から逃れてそうした虚像を消費する大衆としての都市生活者の苦悩が描かれる。その苦悩の語りが鏡の位置に置かれることで、虚構の現実として作品に接していた鑑賞者に、不意に自身の姿をその鏡像として定位するよう迫る。ここに来て、鑑賞者は再び現実へと引き戻される。

展示室3

 最後に展示される《Being Wild》(2021)は、前の展示空間で描かれるような都市的な生活と伝統の残る小さな街での生活を鮮やかに対比する。ローラースケートで異なる風景をつなぎあわせるように駆けまわる少女は、ひとり語りをしながら時折1980年頃の歌謡曲をおもむろに口ずさむ。彼女の等身大の語りと風景の移ろいは、急速に変貌する街や時代の変化を象徴すると同時に、時代を遡行することで現実へと抗おうとしているようにも見える。またゲーム的な画面の構図が、都市の発展とその裏にある無数の小さな街の荒廃という現実の空虚さ、そして後者には触れることができない歴史という装置の虚構性を浮き彫りにする。

展示風景より、《Being Wild》(2021)

永劫回帰

 さて、ここまで展示の導線に沿って、それぞれの空間および展示構成を追ってきた。最後にみた《Being Wild》は、最初の展示室へと続く回廊の角となる空間を覆うように湾曲した大きなスクリーンに投影されている。そして、作家がつくり出す虚構の舞台装置としての展示空間をひとつの大きな円環としてつなげている。また最後の作品を鑑賞してはじめて、この空間が反時計回りに周回する構造になっていることがわかる。この展示の導線は、残酷な現実が進むことに対する抵抗であり、知らず知らずのうちに鑑賞者は陶がつくり出した舞台装置を通してこの抵抗をなぞらされている。そしてこの入り組んだ現実と虚構は、周回しながら無限に続いていく。

展示風景より、《Being Wild》(2021)

 陶はここまで繰り返し述べてきたように、現実と虚構を重層的に行き来する。陶自身がテレビや小説といった虚構に救いを求めてきたひとりであり、そうした彼が創出する舞台装置に巻き込まれ、鑑賞者それぞれの生きる現実が客体化されていく。残酷な現実は死をもってしか終わらせることはできない。だからこそ、それ自体を虚構によって客体化し、現実を括弧にいれることで抵抗を試みる。「生の彼方の地(In the Land Beyond Living)」に続くのは、現実としての虚構か、あるいは残酷な現実か。

*1──Yang Zi, “Outside of Form, the Story Begins: The Work of Tao Hui,” New Directions: Tao Hui (Beijing: UCCA Center for Contemporary Art, 2015), 18.